13.「おつくり」のこと


ヤマトタケルとお父さんの景行天皇が仲睦まじく書かれている日本書紀の方では、景行天皇は、亡くなった息子タケル(日本武尊)のことが忘れられず、タケルが平定した国を巡(めぐ)ってみたいという思いに駆られて、東海の方から船で「上総国」(かみつふさのくに、かづさのくに)の国を訪れることになった。今の千葉県の房総半島にあたる。


旧暦の十月(かむなづき)に、「淡の水門」(あはのみなと)というところに入った。「淡」は「安房(あは)」のことで房総半島の南端部、「淡の水門」は今の「館山湾」とも云われている。(安房は後に上総から独立する。)


以下のことは日本書紀の読み下し文テキストでほんの三、四行の記述に過ぎないところなのだけど、その話の含むところを記紀万葉みな併せて古今の諸々のつながりとともに話し始めれば尽きないほどの内容を持っているの。




船が「淡の水門」を進むと、その時、「覚賀鳥」(かくかのとり)の声が聞こえた。この鳥は「ミサゴ」のことらしいけど、「ガクガク」(賀久我久)と鳴く鳥、という風に書かれている記録もあるということで、なかなか姿を見せない鳥らしい。天皇はその姿を見たいと思って、船を浅瀬に付けて、海の中に入ってその声を追った。しかし、鳥の姿を見ることはできず、代わりに「うむき」(白蛤)を見つけて、それを採った。「うむき」は「はまぐり」のこと。


その時に、「磐鹿六雁」(いはか・むつかり)という人、その人は天皇の食事を受け持つ「膳臣」(かしはでのおみ)の祖先となった人なのだけれど、その人が、水辺に生う「蒲」(かま)、これは今は「ガマ」と濁って云い、「蒲(ガマ)の穂」と云うその「カマ」だけど、その蒲の茎を編んで、それでもって「たすき」(襷)を作って、それを掛け、そして天皇が採った「うむき」を「なます」(膾)にして、それをおすすめした。

当時の「なます」は今で言う「さしみ」(刺身)のこと。日本書紀は下のように書いている。


    蒲を以(も)て手繦(たすき)にして、    
    白蛤(うむき)を膾(なます)に
    為(つく)りて進(たてまつ)る


次いで、そういうわけで、六雁臣(むつかりのおみ)の功績を褒めて、「膳大伴部」(かしはでのおほともべ)の位を授けた、と記されている。「膳大伴部」は天皇のお食事のお役目。「故」は「かれ」と読むけど、「それで」とか「その故に」とかいうこと。(「六雁」は原文で「六鴈」となっているけど、ここでは「雁」の字を使う。)


    故(かれ)、六雁臣(むつかりのおみ)の
    功(いさみ)を美(ほ)めて、膳大伴部を賜(たま)ふ


白蛤(うむき)の刺身をつくってさしあげたことがなぜそれほど褒められるに値する「功績」なのだろうか。日本書紀にはその理由が記されていない。


それは酒折宮の「新治筑波」の問答歌で、「九夜十日」(ここのよ・とをか)の答えを詠んだ「おきな」(老人)が、何故に東(あづま)の国一つという途方もない褒美をもらったのか、その理由が何も書かれていないのと同じ。



六雁は、日本でただ一人「料理の神さま」となった人で、「高倍(たかべ)の神」と呼ばれて、千葉県千倉にある「高家(たかべ)神社」にまつられている。料理や醸造関係の人々の信奉が厚い。


今私たちが云う「おつくり」(お作り、お造り)は、上に引いたように、その「六雁」のお料理の内容、


    白蛤(うむき)を膾(なます)に
    為(つく)りて進(たてまつ)る


とある、その「為(つく)りて」の「つくり」に始まっている。それは「新治筑波」(にひばり・つくば)の「筑波」の「ツク」に掛けたものだ、と先回書いた。 



日本書紀が書かれた頃には、そうやって褒められることの訳は誰でもが分かっていて当たり前で、説明の必要もないくらいのことであったとしても、私たちにしてみれば、さっぱり訳がわからない。でも、ためつすがめつして見ているうちに少しづつ訳がわかってくる。


六雁が料理した「おさしみ」のことがなぜ千数百年の後の今も「おつくり」という云い方として生きているのかというと、六雁のその「蒲のたすきをして、白蛤(うむき)のなますを作った」という、その料理振る舞いには深い思いが込められていて、そのことの話しは多分相当長い間語り継がれていたからなんだ。


その思いを、さらりとその「蒲のたすきを掛け」、その「なますに作った」ところが、景行天皇の心に届いた。これは料理振る舞いによる「本歌取り」で、その「本歌」は「新治筑波の問答歌」。    


天皇は我知らず海の中へ入って行き、そしてその鳥の行方、姿が分からないまま、ただ「うむき」(白蛤)を得て、「これ、見つけたよー」とおっしゃる、そのお姿からお気持ちを察し、六雁は胸の痛みに耐えなく、それでその「うむき」のお料理をして差し上げたのだけど、その時、自分のいでたちとその料理の内容とでもって、精一杯のお慰みを申し上げた。その気持ちが天皇に通じたの。


前に云った柿本人麿の「鎌を掛ける」の技法のことだけど、本当は六雁のその「蒲(かま)のたすきを掛ける」ということの「口に言わずして」の趣を承けている。



つまりこういうことなんだ。天皇が「ガクガク」(賀久我久)と鳴き、姿を見せない鳥と呼ばれる「覚賀鳥」(かくかのとり)の声を追った、ということは、天皇の気持ちの中には、甲斐の国、酒折宮(さかをりのみや)での問答歌で御火焼老人(みひたきのおきな)が詠んだ答え歌「かがなべて、夜には九夜、日には十日を」があった、と云うか、「覚賀鳥」の「ガクガク」と鳴くその声が、天皇の耳には、何て云うか、「ガッガク」という風に、「かがなべて」の「カガ」に聞こえた。

そもそも「覚賀鳥」(かくかのとり)の「カクカ(カクガ)」は、「カッカ(カッガ)」となり、「カカ(カガ)」となる。日本書紀では古事記の御火焼老人は「灯(ひ)ともせる者」(「秉燭者」)という風になっているけど、ここでは古事記の方の云い方で云うことにする。



それで、御火焼老人が近くにいるのなら、我が子タケルもきっと一緒に近くにいるだろう、そう思って天皇は我知らず海の浅瀬に下りて、その鳥の声を追った。しかし声はするけれども姿が見えない。そしてかわりに「白蛤」(うむき)が見つかった。


六雁には、天皇のその気持ちが分かったの。天皇は「答え歌の声は聞こえるが、皇子(おうじ)の姿が見えない。かわりに白蛤があるのみだ。この気持ち、どうしたらいいのか」とおっしゃっている、と六雁は察した。


お料理のことを「割烹」(かっぽう)と云う。「割」は包丁でさばくこと、「烹」には「燃」という字の下の四つの点々と同じ点々がついてるけど、それは「火」の意味で、「烹」は火を使って煮ること。
               

今この「淡(あは)の水門(みなと)」に居られて、「かがなべて」の歌のことを想っておられる天皇のお気持ちに、どのようにお応えすれば、御火焼老人がヤマトタケルをその答え歌でもってお慰めしたように、ここに居られる天皇をお慰めできるだろうか、と六雁は思った。


その時、六雁は「御火焼老人」(みひたきのおきな)の答え歌「かがなべて」の「ナベ」に、「火焼」(ひたき)ということと併せて、「鍋釜」(なべ・かま)というその「ナベ」を想ったの。         


そこで、御火焼老人の「火焼」(ひたき)とその「かがなべて」に沿いつつ、尚且つ今天皇が居られる「淡の水門」の「水」ということにちなんで、六鴈は、云うならば「割烹」で火を使わない「割」の方を採ってみた。


そして、「鍋釜」(なべかま)の「釜」を、「水辺」に生える「蒲」(かま)でもって代え、その茎を編んで「たすき」としたの。この「カマ」は又「淡の水門」のある「上総国」(かみつふさのくに)の「カミ」からも掛かっていると思う。


そして、「淡の水門」の浅瀬に入って行かれたことにちなんで、その「さざ波」の「ナミ」を「なます」の「ナマ」とし、それにヤマトタケルの問い歌にある「筑波」(つくば)の「ツク」を採って「『ナマす』を『ツクる』」ことを選び、それを天皇にたてまつった。


「なます」の「ナマ」は、上のように「なみ」(波)から掛かりがあると同時に、又、答え歌の「九夜十日」、タケルの問い歌にある「幾夜」という、その「数」のことから、前(第6回)に云ったように、「馬数而」を「馬並(な)めて」と読む、そこにに見える「数」=「ナメ」(< Lat. numerus)ということでもって、その「ナメ」(数)も又「なます」の「ナマ」に掛かっている。


六雁はこうして、「かがなべて」の返し歌、「新治筑波を過ぎて」の問い歌をお偲(しの)びになられるお気持ち、お察し申し上げます、とお料理でもって云った、ということなの。


・・そういうことなんだけど。