前回に述べたタケルの問い歌の中にある幾つかの音に込められた「火」や「燃える」のことについてヒントを出すような感じで、古事記は「御火焼(みひたき)の老人(おきな)」を出す。
そうやって、その「火焼(ひたき)」の「タキ」(TK)に注意を向けさせて、印欧語ゲルマン派の一例「古サクソン語」のあたりの「ダグ」(dag,「日」、DG)を呼び、併せてラテン・ギリシャ語の「DK」の音であって且つ「十」の義のコトバ、「デケむ」(decem)、「デカ」(deka)を呼んで、オモテ向きには問われていない「日の数」を「十日」と詠ませる。
古事記でも日本書紀でもそうだけど、「気が利く」、「人の気持ちを察する」ということをとても大事にしている。そして問いを為す方も、答えを為す方も、ものごとをあまり分かりやすく、あけすけにはしない。問う方は周りに悟られにくく、分かるものだけが分かるように問うし、答える方は、答えを出すプロセスに工夫を凝らす。
いつの時代でもそうだろうけれども、古事記や日本書紀の世界ではそういうことが歌のなかで殊に重んじられる。それで「掛け」は「掛け」でもただの「掛け」ではなく、そこに「ひねり」ということがでてくるのだけど、それも、奈良期までは問う方も答える方も、それを異なる言語を股にかけてする、というところが今のわたしたちからすると並でないの。
言語表現といっても、それはいろいろな方向から評価できて一律には行かないだろうけど、「人の常の事柄、気持ち」といったものを伝える、という点で、どちらが頭を使っているか、どちらが手のこんだやりかたをしているかと問われれば、奈良期までの人々のほうが、わたしたちよりもはるかに気を張っていなければならない中にあった様子で、だからそういうことで頭を使うし、そういうことではわたしたちよりずっと頭がいい、と云うか、ボ−っとしていない、という感じがある。一言に云って冴えている。それは言語環境が複雑だったから自然とそうならざるを得なかったと思う。源氏物語にうかがうような感情の深みということとは又別の、頭の言語の感じがある。
昔のロ−マの貴族は大浴場のようなところで互いに話をする時は、ギリシャ語でしたと聞く。というのは背中を洗ったりマッサ−ジしたりしてくれる人たちには、その話の内容が分からないようにそうしたと云う。
やまとことばの歌の技は、先回話したように、異なる族(うから)が互いに相手のコトバを歌に詠み込みあって親しみを深めるため、ということがもちろんあるけど、その一方で、知る人ぞ知る、ということを伝達する手段である、といった面や機能もあったと思う。
ヤマトタケルがおきなに東国(あづまのくに)という国一つを褒美にあげた一つの大きな理由は、問いに密かに込めた「火」のこと、すなわち「弟橘姫」のことを、おきなが「日の数」を答えに加えることによって、タケルの深い悲しみをよくわかっていることを伝えたことにあるの。
タケルが「夜の数」を問うたことには、タケルの心の中にラテン詞「ノクス」(nox, 「夜」)かギリシア詞「ヌクス」(nuks, 同)があってのことで、それはつまり「NK,NG」のことであり、父景行天皇との「ネギ」(NG)に関わるその行き違いのこと、そもそもそのことから苦しい東征が始まり、弟橘媛もそのことのために居なくなってしまった、そのことに連なるのだけど、それをタケルは誰かに返しの中で云って欲しかった。
でもタケルはその「NK,NG」の音は一切歌には出さず、「NK,NG」の答えを待ちつつも、或る迂回した形で問い歌に詠み込むの。火焼の老人が答えたような、その当の応えを期待しつつ、その分かりにくい迂回路の入り口を問い歌の中で出した。
ここで御火焼の老人は考えた。「新治」の「新(ニヒ)」は音で「ニヒ」、すなわち「NH」ではあるけれども、「ヤマト」の言語環境にある、或る言語の或るコトバは、その「新」の義、つまり「あたらしい」というその義であって、しかも「NG」の子音から成っている、と。
我があるじタケルは、「ニヒばり」と詠み、「幾夜」と詠んだ。おきなには「夜」のコトバはすなわち「NK」のコトバ、とすぐ分かった。で、あるじの心には「NG」のことがある、と察した。それは無論「ネギ」のこと。
我があるじはその心の「トゲ」である「ネギ」(NG)というコトバに関わる音をそのまま口にしたくはない、でも、その苦しみを人に分かって欲しい、というその気持ち、そしてその音のことを代わりの「NH」という音でもって問うている、ということが、おきなには分かったの。
タケルが問い歌で詠んだその
「新(ニヒ)」(NH)
を御火焼の老人がしっかりと受け止めていることは、返し歌を見れば分かる。
夜には九夜(ここのよ)、日には十日(とをか)を
とある、その
「夜ニハ・・日ニハ」の「ニハ」 (NH)
がそれ。「新治」の「新、ニヒ」とおっしゃるそのお気持ち、よくよく分かっております、と、おきなは云った。
前にも書いたように、昔の「ハ行」の音は今のと違って「ハ」なら「プファ」というような音で、発音記号で表すと [ph]になるような音なのだけれども、今は便宜的に「H」で表すことにする。
この「NH」から「NG」に至る迂回路に絡んでいるのが、すぐあとで示すペルシャ語のコトバなの。
お父さんである「景行(けいこう)天皇」の言うペルシア語由来の「やさしい」という義の「ネギ」(=「nēkī」、ネーキ−、等)を、そのウラにラテン語由来の「ネコー」(=「necō」のしっぽの母音の一変化形)がある、と聞き取ったタケルは、その時こういう風に考えた。
お父さんのところに来るはずの女の人を、お兄さんは自分のものにしてしまって、お父さんのところには違う女の人を来させた。そういうどうしようもないいたずらをしたお兄さんを、お父さんは殺してしまいたいほど憎いのだろう。でもそれをあけすけにはなかなか言えないだろうから、「やさしく教え諭してあげなさい」ということをおっしゃる。でもその「ネギ教へ諭せ」の「ネギ」には、お父さんは何か思いを込めるところがあるのだろう。それはことの重大さから考えて、ラテン語の方の「NK, NG」のコトバ、つまり「ネコ−」(necō)に違いない、とタケルはそう考えた。それとも、お父さんはストレ−トに「殺して、思い知らせてやりなさい」とおっしゃった、と聞いたか、どちらかだ。
今一応、前のほうの、エコ−として聞いた、と云うことにしておく。ここが今、「いじめること」を「かわいがってやる」という風に云うような、そういう云い方、聞き方とは、今一つ違うところ。ペルシア語の「やさしく」という「ネギ」をただ裏返しして、皮肉っぽく聞いたのではなくて、そこに本当に「殺す」という意味のラテン詞「ネコ−」(necō)を聞いてしまった。つまりそこにそういうエコ−があるという風にタケルは考えてしまったの。
ラテン詞「necō」の意味は同じ殺すと云うことでも、刀や短刀(あいくち)などの武器で刺し殺したり、斬り殺したりするのではなくて、紐で首を締めて殺すような、そういった殺しを意味する。
それで、言われてから「五日」目にお父さんに呼ばれて、どうやって「ネギ」をしてやったのかと聞かれて、お兄さんが朝トイレに入って行った時に、つかみつぶして、手足を引きもいで、薦(こも)に包んで投げ捨てて置きました、と、云われたとおりにちゃんとやって置きました、という気持ちで答えた。
ここで、
「投げ棄(す)てた」(=(原文)「投げ棄(う)てつ」)
というその
「ナゲ、投げ」 (NG)
の「NG」は、まさにお父さんがおっしゃる「ネぎ」のとおりにやっておきました、というタケルとしては精一杯の誠意のあらわれなんだ。
そうやって、タケルは気を利かせ過ぎてまちがってしまったのだけど、そういう間違いをするのも、もともと「多言語」に通じ、耳が鋭敏であるが故で、御火焼の老人はそのあたりのタケルの心の内をしっかりと読んだ。
「新しい」という義で、「NG」の音のコトバというのは、
ペルシャ詞「nōg」(ノ−グ、NG)、「新しい」
なんだ。ここで今、ペルシャ詞でもって説明したけど、実は、
古サクソン詞 「nigi」 (ニギ、NG)、「新しい」
ということでも説明できる。ただ、ここは火焼の老人としては、「ネギ」の誤解に関わることであるので、その誤解の時のラテン詞に対するペルシャ詞の方を引くことから入る、ということに一層の意義があっただろうと思う。
おきなは、「新治」の「新」の「あたらしい」という義から導かれるこの「NG」から直ちに「夜」を導き出す。それが先回述べた、
ラテン詞「noks」(ノクす、NK)、「夜」(「noks」=「nox」)
ギリシャ詞「nuks」(ヌクす、NK)、「夜」
そして「九夜」の「九」のほうは、前回の「表1」にあるように、たとえばゲルマン派における一例としての、
古サクソン詞 「nigun」 (ニグん、NG)、数「九」
ということになる。形としては、古サクソン詞 「nigi」(ニギ、「新しい」)の方に近いから、おきなはペルシア詞「ノーグ」(nōg)からこの古サクソン詞のあたりに入っていたかもしれない。
こうして、火焼の老人は「九夜」でもってタケルの「ネギ」の苦悩を、そして「十日」でもって「弟橘姫」のことのその寂しさを、こころからお察し申し上げます、と云ったの。
タケルはこのおきなは私の気持ちを本当に分かってくれている、と思った。そう思った時、そこまで分かってくれる人なら、この心の重さと寂しさを背負って平らげた東の国ひとつをあげてもいい、と、そう思うほどにタケルはその二つのことを思い詰めていた。
「お気持ち、分かります」と云うことでも、渾身の言葉の技を尽くして伝えてこそ、の話。ただ、この問答歌は「お話」「物語り」の中のことであり、それも場が場であるだけに、手が込み、奥まりがあること格別、ということであるけれども、そこまででないにしても、その頃の人たちの気持ちの伝え方には私たちは手が届かない、と、ため息が出る。
時代下って、「連歌(れんが)」のことを
「筑波(つくば)の道」
と云うようになった。けれども、「新治筑波の問答歌」については、その頃の連歌師が把握していた以上のものを、わたしたちは今知り得ているはず。それ以上、というのは、その頃は大屋根に上ったまま梯子をはずされてしまったあと、時代がだいぶ過ぎた頃なので、もうどうしても解けない部分があっただろうし、この問答歌のいにしえから伝わる名高さでもって、良く分からないところもあるけど、なんとなく崇めている、というそういうところもあったことは否めないと思う。その点、エコ−のところなどはわたしたちは、古今の外語辞書によって当時の連歌師が把握できた以上のことを正確に知ることができる。
この火焼の老人の「ニハ」の事情を思いながら、柿本人麻呂は次の歌を作っているようなの。
ここでの「ニハ」は船を漕ぎ出すのにいい海面、漁場のことを云う。「爾波(ニハ)」、「庭」などの字が用いられる。「飼飯(けひ)」は今の兵庫県にあるところの名。
飼飯(けひ)の海の、ニハ好(よ)くあらし、
刈薦(かりこも)の乱れ出づ見ゆ、海人(あま)の釣り船
「刈薦(かりこも)」は「刈り取った薦(こも)」のことで「乱れ」に掛かる枕ことば。「あらし」は「あるらし」、つまり「(そうで)あるらしい」。
この「ニハ」は、「新治筑波の問答歌」での返し「夜には・・日には」の「ニハ」に掛けているようなの。人麻呂はこの海の「ニハ」(NH)から、その問答歌で火焼の老人がしたと同じように、或る「NG」のコトバを導き出してみてね、その「NG」から海の様子を知ってね、と謎掛けをしているように見受けられる。
と云うのも、「飼飯(けひ)の海」というちょっと変った地名のその「飼飯(ケヒ)」だけど、「ケ・ヒ」で、「K」と「H」でできている。人麻呂は「K」を「G」として、「H」とその「G」とで遊んでみてね、たとえば「ニハ」の「NH」を、火焼の老人のようなあまり深い訳はないのだけど、それに習って「NG」に代えてみれば?、と云っているみたいだ。「(海の)ニハ」と出したこと自体そういうことだろうと思う。
そうすると、その「NG」が呼ぶコトバは、多分、
「ナギ、凪」 (NG)
なんだ。
海辺の小高い岡のようなところから眺めているから、キラキラ光る海の面の波の高さは良くはわからないけど、穏やかな漁日和(りょうびより)の様子だ。沢山の釣り船が舳先(へさき)をあちこちに向けて、「には」に漕ぎ出して行くのが見える、と。