27. ヤマトタケルの話の筋(7) かかなべて(1)


火焼の老人の返しは、


  かがなべて、夜には九夜、日には十日を


とあるけど、今までその「かがなべて」の方については、ほとんど触れて来なかった。


この「かがなべて」と云う、たった仮名五つの一句は、あとに続く「夜には九夜、・・・」と同じく、意味深だ。


ここでのやり取りは、多分長い間に磨きがかけられたヤマトタケルの話しの筋の中で、一番盛り上がるところなので、技の込め方が一通りでないの。


ヤマトの環境の中で、その頃の人たちの歌や歌のやり取りは普通これほど凝ってはいない。それでも、「人の世、人の心の常のこと」にかかわる「コトバ」の音や技についての入れ込み方、仮名二音が響き渡る範囲の広さは今とは違う。


田んぼにいても、馬に乗っていても、宮中にいても、人にもよるだろうけど、常にコトバの音と技が頭の中を回っているような・・ そういう様子は、わたしたちにも後の世にももう無いことなんだろう。ヤマトのコトバにとってはいい時代だったんだ。
                         

三島由紀夫が「平仮名」を、記憶が正確ではないけれども、「くねくねとした」、だったか、何かそんな風に書いていたように覚えているけど、それは文字の線や形のことだけではなくて、やまとことばそれ自体のことも言っていると思う。たとえば概念的に或る領域に入ってくると、どうしてももの足りないところ、カッチリ表現できないところ、そういうあたりのことがあり、誰しも日頃それを感じる。「共通語やまとことば」の成り立ちを考えると、それは当然なんだ。


「やまとことば」は、本来、その言語パワ−供給源としての「背景諸言語」、つまり前に云った「汎(はん)やまと語彙」、それもエコ−とその他少々をプラスした方のではなくて、範囲を目一杯取って、「関係諸言語を皆併せたところの語彙全部」というものを「背景」として初めて十全の機能を果たせた、という、そういう言語だ。


その「背景諸言語」が水が引くように消え去り、パワ−供給源が無い状態になったのだから、文字だけでなく、コトバ自体がある意味で「くねくね」「へなへな」のところがどうしてもある。それを補っていると云うか、補い過ぎているようなのだけれど、そういうものとして漢字漢語や今日の外来語がある。


やまとことばはそのような欠点を伴うその特性、つまり「一つ一つのコトバの形が簡単、或いは簡単過ぎる」という特性の故に、他の言語では到底無理と思われる複雑な「掛け」の技法を駆使することができたのだけれど、その特性故のその特技は、背景諸言語が消え去るとともに、平安期には奈良期までとは比べものにならないほど衰えていた。そして、わたしたちのコトバの大きな問題は平安期と今とほとんど同じ形で続いている。


複雑な言語環境のなかで、通じやすいように「大まかに、簡単にする」という意思が働いて出来た「やまとことば」だけれど、その言語環境に、学校で云う第二外国語と云うような云い方で例えれば、「漢語」が「第七外国語」(*)くらいの形で入ってきた。


(*「トルコ語、印欧語、セム語の混交状態のなかで、印欧語については、ラテン・ギリシャ語、ペルシャ語、ゲルマン語、それに少々のサンスクリット語、の痕跡が区別できるので、これら印欧語諸派を四つくらいに数えて、それとトルコ語、セム語とを二つと数え、「やまとことば」の背景諸言語は、併せて「六つくらいの言語」、としておくね。セム語は多少小分けができるけど、印欧語ほどではないので、一つに数え、それで大分類、小分類まぜこぜだけれど、「六つ」としておく。)


もともと扱いやすい「やまとことば」だけに、漢語といろいろな組み合わせができて、それで新しい微妙な表現が可能になったけれど、それを「日本語」と呼ぶとすると、日本語は今度は反対に、外から来る人たちにはとても難しくて近付きにくく、そしてわたしたちにとっても扱いにくい言葉になった。
             

よくカタカナ語はなるべく止めにして、できるだけ漢語で言い表すようにしよう、ということが云われるけれども、実はカタカナ語の方が「やまとことば」もしくは「日本語の本体」に近い。というよりも、もともとは同質のもの。今言われるカタカナ語というのは、ほとんどがやまとことばの背景諸言語である六つのどれかに由来するものだから。


意味をちゃんとつかむようにすれば、カタカナ語は「何か違うもの」というものではない。


ただ発音や表記の方法にもっと工夫が要る。今のスペイン語は、英語の「football」(フットゥボ−ル)を「futbol」(フットゥボ−ル)と書いているけど、そういう風な表記の一貫性や発音の一貫性、それに、やまとことばの伝統である「簡略化」の新しいル−ルを日本語なりに作っていく必要がある。

   
日本語は難しい、とは言われながらも、でも近頃日本にいる外国の人が日本語を話して居るのを聞くと、とても上手なのにはおどろく。おそらく、漢字のことを抜きにして覚えれば、日本語と云ったらいいのか、やまとことばと云ったらいいのか、それはやはり世界の中のいろいろな言語の中でもとても易しいものの中に入るのだと思う。


でも、漢字、漢語を使って来た千数百年という年月は、やまとことばにとっては、背景諸言語とともにあった年月よりもすでに数百年長くなるし、漢字、漢語抜きの日本語というものは考えられない。



            
「かがなべて」の説明に入るまえに、横道にそれて長くなってしまったけど、ついでだからもう一つのことを・・

   
今まで、「NK,NG」とか、「TK,DG」とか、又、「SK,SG」とかいうことを云って来たけど、なぜ「一対の子音」という、そういうことがあるのか、ということだけど、そのことを話しておかなければ、読んでいてもどこか落ち着けず、なんとなく疑問がつのっていくと思う。
          

前に、それにはわたしたちが昔から使っている或る呼び名がある、と書いた。ほとんどの場合は「一対の子音」なのだけど、古事記が書かれた頃や万葉集の頃、又それ以前の人たちが、それを何と云う名で呼んでいたかというと、それは、誰でも知っている呼び名で、


  「ことだま」(詞魂)


と云う名。


「言霊(ことだま)」という書き方もあるけど、もともとの意味に沿った書き方を選ぶとすると、「詞魂」の方がいい。つまり、


  「コトバ」(単詞、=単語*)の「たましい(魂)」


ということで、この場合、その


  「たましい」は、「元になるもの」と云うような意味


で使われている。

(*「名詞」「動詞」とは云うけれど、「名語」「動語」とは云わない。それで「単語」はここでは「単詞」と云うことにする。つまり、「a word」=「単詞」。)


それが段々と「言霊」という、運勢を左右するような、「霊性」を帯びたようなものの方へと意味合いがずれていく次第を下の方に書いておくけど、そもそもの「詞魂」の方の説明をまずしておく。


その頃の人たちは、印欧語のアルファベットのように「子音字」と「母音字」とでもって音を表す方法を持たなかったけど、それでも、云うならば「カ行の音」、「ナ行の音」と云ったことに類するような感覚は持っていて、


  「ナガ」と「ネギ」とは同じ「ことだま」のコトバ、

  「タケ」と「ツカ」とは同じ「ことだま」のコトバ、


といった風な考えを抱くことができた。つまり、今ここでの言い方を用いれば、


  「ナガ」と「ネギ」とは「詞魂NG」のコトバ、

  「タケ」と「ツカ」とは「詞魂TK」のコトバ


である、といった風に近い、そういう考えを抱くことができた。



この「ことだま(詞魂)」という呼び名は、


  もともとは「セム語」で使われている概念


に由来する。


前に話したことのあるホンダの「ステップ・ワゴン」のことだけど、そこで「ワゴン」を「WGN」という風に書き表しているのは、セム語の表記の仕方を応用している。ただ「wagon」はセム語ではなく、印欧語のコトバだから、表記の仕方を応用しているだけ。


セム語では、一つのコトバは基本的に「三つの子音」から成っている。その「三つの子音」が印欧語で云う「ル−ト(根)」、もしくは「詞幹(=語幹)」に相当して(*)、基本的な意味を担っている。

(* 「一対の子音」が「ル−ト(根)」に相当して、「三連の子音」は「詞幹、=語幹」に相当する、という見方もある。)


たとえば、


  「KTB」という「三つの子音」のワンセットは、
  「書く」という意味を基本的に担っている


その子音のそれぞれに母音を付け加えたり、加えなかったりして、例えば、


  「KaTB」(カトゥブ)、「書くこと」

  「KāTiB」(カ−ティブ)、「書く人」

  「KiTāB」(キタ−ブ)、「本」      


という風に詞形、そして意味を作って行く。でも「KTB」という子音ワンセットの「書く」という基本義は変らない。


このように、その「三連の子音」はその「書く」という義から派生する様々なコトバの「骨組み」、「芯」、となるものなので、そういう意味合いでもって、それを


  「コトバのたましい」


とセム語では呼んでいる。


やまとことばでは、それと全面的に同じということではないけど、「子音のワンセット」をコトバ形成の骨組みとするやりかたを形式的に採用し、


  「一対の子音」をコトバを作る「骨組み」


とした。


そしてそれをやはり「ことばのたましい」、つまり「ことだま(詞魂)」と呼ぶようにした。


やまとことばは、さまざまな言語のコトバを擁する、ということで、一番幅を広く取った意味での「汎やまと語彙」の中から「共通やまと語彙」としての「コトバ(単詞、=単語)」を作るにあたって、基本的に「仮名にして二音(=二字)」に相当するような音の取り方を選んだ。はじめの頃はまだ仮名は無かったけれど、説明として「仮名にして二音」という風に云う。


それはつまり、「一対の子音」、すなわち「ことだま」のそれぞれに様々に母音をつけてコトバを作って行く、ということなの。


基本的に仮名二音でも、今わたしたちがそれを実用しているように、日常的には大体それで用が足りてしまう。同音異義のコトバでも、アクセントの違いや前後の話で、大体難なく通じる。(やまとことば、日本語のアクセントは、音の「強弱」ではなくて、「高低」によるもの。)用が足りるどころか、表現力は万葉集、等々に見えるとおり。




ところで、或るコトバを口にすると、そのことが実際に起きてしまうから、悪い結果をもたらすようなことは口にしない方がいい、ということが云われる。そしてそれはコトバには「ことだま」があるから、とされている。でも「ことだま」はいいことについても使われて、コトバには「言霊」がある、という風に云われる。


「コトバ」はもともと力があるもので、「できる」と言えば、そう言わない時よりもできるようになる。それを「ことだまの力」と云って云えないこともないけど、もともと「一対の子音」のことである「ことだま」が上のように云われるようになったのには、それなりのいきさつがある。


「そのコトバを口にすると、・・」ということは、口にしたそのコトバが示すことそのものが実際に起きてしまう、ということであると云うよりも、もともとは、そのコトバを作っている「一対の子音」つまりその「ことだま」から成る或る別のコトバのことがらが連鎖的に起きる、ということ。


なぜそういうことが云われるようになったかと云えば、もう分かると思うけど、古事記ヤマトタケルの話で見てきたように、「ことだま」であるその「一対の子音」が次々と話しの筋を導いて行く、そういった風にして物語が編まれることが行われたからなんだ。


そういう話の展開を見ると、「一対の子音」である「ことだま」には何か霊的な力があって、それで運勢を左右しているように見える。


「坂手池(さかてのいけ)」を作(ツク)って、その堤に「竹(タケ)」(TK)を植えた、その後「五日(いツカ)」のことが起きた、そしてニセの刀(たち)、詐刀(こだち)の「柄(ツカ)」のことがあった、という風に、常識から云って全く予想のつかないことが「ことだま」ゆえに起きてしまう。


でも、古事記の話が編まれているうちに、編んでいる人たち自身も物語に入り込んで、その気持ちの中で「詞魂」が段々と「言霊」のようなものになっていくようなこともあっただろう。


それでも、その気持ちはあくまでも「一対の子音」であるところの「詞魂」、そしてその技法というものの足場に立ってのものであったと思う。



でも時代が下るにしたがって、今のわたしたち自身がその何よりもの証言者であるように、古事記の話を聞く人たちにとって、「ことだま」は段々と分からないもの、漠然としたものとなり、とにかくそれは何か霊力があって運勢を左右するもの、というようなものになって行った。


日本書紀を見てみると、日本書紀を編纂していた人たちの間でも既に「ことだま」というものが何であるのかが分からなくなっていることを示す記述がある。それは「枯野(からの)」という速く走る船の名についてのことなのだけど、次の回にでも話すね。「やまとことば」については古事記に関わった人たちのほうがやはり理解が深い。


奈良期の人たちにして既にそういう風だったのだから、時がたつにつれて、「ことだま」については、「あるコトバを口にすると・・」というようなことが云われるようになる、そういうことに直に関わるものと考えられるようになるのも、自然の成り行きだっただろう。


「子音のワンセット」という文法的か言語学的なものに、昔のセム語の人たちが「ことばのたましい」という名を付け、それをヤマトの人たちが呼び名ともども応用の形で取り入れた、というその段階で既に、その「たましい」という表現そのものに、事をまぎらわしいものにする原因があったと思う。




セム語では、上に述べたように、「三連の子音」は或る一つの基本義を担っていて、母音が付加されるその仕方によって、その基本義から派生するコトバが作られて行くけど、その一方、「やまとことば」では、「一対の子音」は背景諸言語の「汎(はん)やまと語彙」からコトバを拾って、簡略化された「ヤマトのコトバ」を作るためのその「骨組み」として採用された。


例えば「骨組みKT」、つまり「ことだまKT」の場合、それは何らかの基本義を担う、というものではなくて、


  「KaTa,カタ、肩」、
  「KaTa,カタ、型」、
  「KaTa,カタ、潟」、
  「KaDo,カド、門」、
  或いは
  「KaTi,カチ(=カティ)、徒歩」、
  「KoTi,コチ(=コティ)、東風」
  「KuTi,クチ(=クティ)、鷹」 (「クチ」は「鷹」の別名)
  

といった風に、意味は、あちらこちらからのコトバで「一対の子音、KT」でまとめられても何とか通じるような、そういうまちまちなコトバが「ことだまKT」に収まる。
  

セム語では「KTB」は「書く」という基本義で固定されるけど、やまとことばでは、「KT」は、「様々な義のコトバを作る元」として機能した。ヤマトの「ことだま」のそういうところが、話の筋を作るのに格好な材料となった、ということ。




景行天皇ヤマトタケルとの「ネギ」(泥疑)のように、状況や気の回し方によって、ゆゆしい誤解と結果を招くことがある。これはでも、やまとことば本来の力強さがあった時であるからこそのこと、と云える。


古今和歌集のころには、「やまとことば」のそういう特色あっておもしろく大事なところが、それを支えていた列島の中の異なる言語族の各々の言語力が弱りきったことによって、ほとんど無くなってしまう事態になっていたようなの。 

  
「梯子を外された」と表現したのは、やまとことばの形成にあずかった諸言語の故地があまりに遠くになってしまって、そことの交通が絶えた、と云うことであるのには違いないのだけど、もっと具体的には、この列島の中にあって「共通語やまとことば」の言語パワ−の供給源であった各言語族のその諸言語自体が、「共通語やまとことば」と「漢語の本格的採用」のドッキングによって駆逐されていった。


それらの背景諸言語が水を引くように消えて行ってしまった、つまり、その言葉を話せる世代が徐々に居なくなってしまった、という、そういう事態のことを指す。

徐々にとは云っても、奈良期を通じてかなり急速にという印象があるの。




漢語とのドッキングによって、やまとのコトバは「漢字の訓」としてあることがその意味を明示することとなり、「汎やまと語彙のコトバの簡略体」というもともとの意味が忘れられて行く。そういう状態を、「梯子が外された」と同じような意味合いで、


  「共通語やまとことばの根切(ねき)り」


と云うこともできる。これは響きとしてちょっと殺伐としたものがあって、あまりいい表現ではないけれども、たとえば「共通語やまとことば」という名のビ−ルがあったとして、そのビールの酵母が瀘過(ろか)処理されて発酵がそこで抑えられるような、そういう意味合いで・・


仮にビ−ルの発酵・熟成が酵母の「無瀘過」で何百年も千年も続く、そういったものであるとして、奈良朝が選んだのは、酵母の瀘過でもってそれを止める、という方のことだった。それが「国事」としての漢字漢語の本格採用、ということだった。
 

そして「汎やまと語彙」を背景とする息づく「共通語やまとことば」ではない、漢字漢語の本格採用におのずと伴う酵母濾過によって、発酵・熟成が止み、「ことだま」の音の翼を失い、地上で固まり始めた「やまとことば」と、そしてその漢字漢語との、そのコンビでもって新しい「国語」というものが歩き始めたの。


長くなり始めたので、今日はここまでにして、「かかなべて」は次にするね。