18.「二鷹」


前回は「一富士」と「三茄子(なすび)」について、そのエコーとして、セム語の或る言語のコトバである「フズ」(huzz)と「ナシャブ」(nashab)のことを話したけど、残りの「二鷹」の「タカ」のエコ−は、


  「運」とか「幸運」の義のギリシャ詞「トゥケ−」(tuchē)


なの。「タカ」(鷹) と 「トゥケ−」とはどちらも一対の子音「TK」で表わされるコトバであることはあるけど、「TB」のペルシア詞「タ−ブ」(tāb)と人麿の歌の「宿る旅人」の「タビ(旅)」などと比べて、この「タカ」と「トゥケ−」の二つは、音としてちょっと遠いという印象はないだろうか。


そのことに関係するのだけど、先回述べた「あさかやま」の歌の娘子(をとめ)が右手に水を持ち、その肘でもって葛城王の膝(ヒザ、HZ)を撃ったのは、神武天皇の弓の「弭」(ハズ、HZ)を想ってのことだったということだけど、この場合の、


  「ヒザ」(膝) と 「ハズ」(弭)


のことは、両方とも「HZ」のコトバだからと云っても、「タビ」(旅)と「タ−ブ」や、「タビ」(旅)と「トビ」(鳶)のばあい、それに「ハズ」(弭)と「ハズ、フズ」(hazz, huzz)と「フジ」(富士)のばあいと比べて、「音が通う」ということがちょっとピンと来にくいところがあると思う。


そのあたりのことについて、次回少し詳しく説明するね。




実は、ギリシャ詞「トゥケ−」(tuchē)というこのコトバをわたしたちは日頃ふつうに使っている。「このあいだはちょっとツイてなかったけど、今日はツイてる」という風に云う、その「ツイ」がこのギリシア詞「トゥケ−」から来ている。


賭け事などで「やっとツキがまわって来た」と云う。この「ツキ」はもちろん「運」「好運」ということだけど、この「ツキ」の昔の発音「tuki」を今の書き方で書くと「トゥキ」になる。そうするとここでもうギリシア語「トゥケ−」(tuchē)のおもかげが見えてくる。


(「tuchē」の「ch」はもともとはギリシア文字の「x」(ケイ、キー; khei, khī)で表わされる音。「k」(カッパ、kappa)で表わされる音よりも喉の奥から出て、たとえば「cha」は「ハ」に少し似ている。でも古代ギリシアでは、地方によっては「k」になる。わたしたちとっては「k」と変わりない。)


「今日はツイている」というのは、「ツキ(運・好運)」を動詞的に使って、「ツキている」と云ったときに、例えば「書きて」が「書いて」という風に、「キ」が「イ」に変わる、いわゆる「イ音便」でもって、「ツキている」が「ツイている」になる。


英語で「運」の義のコトバに「luck」があるけど、「good luck」、「bad luck」という風に、いいのと悪いのとの両方の場合に使う。けれども、その形容詞「lucky」(ラッキ−)は「好運、幸運」の意味になって、悪い方のには、「un-」を付けて「unlucky」という云い方をする。


どの言語でも、「運」の義のコトバは、もともとは良いにせよ悪いにせよ、「運に任せる」というその「運」を意味する、と同時に「幸運」という意味合いを持っていて、どちらかと云うと後者の方に傾いて行く。「ハズ、フズ」(hazz, huzz)の場合も、「ナシャブ」(nashab)の場合も、「トゥケ−」(tuchē)の場合も同じで、もともとは「(与えられた、得た)分」や「運」という義であるそれらのコトバは、「一富士二鷹三茄子」では皆「幸運」の義として働いている。


ちなみに、「運の尽き(ツキ)」という言い方があるけれども、その「ツキ(尽き)」は「トゥケ−、運」に掛けた洒落。