19.「一対の子音」と「掛け」


「鎌を掛ける」の技法で、人麻呂がとてもリラックスして作っている歌があるの。


その歌はこういう風に云っている :


「この岡で草を刈っている坊や(=わらは(わ))、そんなに刈ってしまわないでね。そのままでも、あのお方がいらっしゃれば、お馬が食べるごはんにするから」


人麻呂は「君」を待つ女の人の気持ちになって詠んでいる。(「五七七、五七七」でふつうの短歌の形とはちょっと違っている。)


  この岡に、草刈る小子(わらは)、然(しか)な刈りそね、
  ありつつも、君が来まさば、御馬草(みまくさ)にせむ


この歌は万葉集の中にあって、「人麻呂歌集」にある、と書いてある歌の一つで、柿本人麻呂のものでないかもしれないのだけど、独特の作りから見て人麻呂のものと思われるの。


この歌には、人麻呂が読む人に預ける、特有の静けさ、分からない空白のようなものがあって、読む人はどこか「何なんだろう」という気持ちを抱くと思う。


女の人は「君」が来るのを待っているのだけど、切々としたものが無い。何かを云いたいようなのだけれども、何を言いたいのか分からない。どこかひとごとのように聞こえる。              
    
海に潜るとチ−というような音が、押された鼓膜に聞こえるけど、そんな風に、何か分からない風にし−んとしている。けど、何かが聞こえて来ているような気もする。


どうして「草刈る」なのだろう。どうして急に「君が来まさば」や「御馬草にせむ」なのだろう。心から云いたいことのようには思えない。伊藤左千夫が人麻呂の歌に不服を云いたい気持ちも当然なんだ。


でも、よく見ていると、ジワジワと分かってくる。この歌を作るきっかけになっているのは、実際「草刈る」子供の姿を見掛けたか、見掛けなかったかはともかく、「草刈る」ということから想う「鎌」、その鎌を掛けるということそのもので、「鎌、カマ」(KaMa)を人麻呂が想った時、ふと次の三つのコトバが沸いて来て、女の人の気持を詠んだ。そのコトバというのは、


  「キミ、君」    KiMi
  「キマす、来ます」 KiMa−su
  「コマ、駒」    KoMa


の三つ。子音のKとMを共有している。「こま、駒」は歌で人が乗る馬を云う時によく使う。
                

人麻呂はこの歌のオモテには、思っていてもわざと「駒、コマ」を言わず、代りに「御馬草」(みまくさ、=まぐさ(秣)、かいば)を出すの。


多分お天気のいい日の昼下がり、「駒、コマ」の影、姿は「御馬草」でありありとしていて、却ってその「御馬草にせむ」でもって、草を喰(は)む駒が見え、そのゆっくりと過ぎる時間、そして心地好いそよ風までが感じられる。駒を置いて岡を駆け降りてくるその「君」としばしゆるりと過ごしたい、というその女の人の気持ちがよく出ている。


「コマ、駒」、「キミ、君」、「キマす、来ます」の三つがそういう風に「カマ、鎌」から掛かっている。



奈良時代でも今でも、「仮名」はその音の子音だけを表わすということはできなくて、「KM」という表現はできないけれども、でも奈良時代の人たちはそういう「一対の子音」というものに似た、或る「観念」のようなものを抱くことができて、それを今わたしたちもよく使う「或る呼び名」でもって呼んでいる。いつかその「呼び名」が何であるか話すね。


その頃の人たちは、わたしたちが「掛け」と感じるものよりも、もう少し広い音域のものに「掛け」を感じることができたの。つまり、「一対の子音」を共にしていれば、それが「掛け」になる。


上の「御馬草」の歌は、宮廷歌の緊張から離れて、のびのびと詠んで見た、といった風で、云い様では、「掛け」の作歌のお手本のようにして作っているようにも見える。とにかく「鎌掛け」の一つのスタイルとして、ちょっと凝った作りで、でもそれが分かりやすくできている。
            



再び「阿騎の野」の歌の第二首を引いてみると、


  ま草刈る、荒れ野にはあれど、もみち葉(ば)の、
  過ぎにし君(キミ)が、形見とそ来(こ)し


とある、その「きみ(君)」、これも「ま草刈る」の「鎌、カマ」の「KM」から掛かっている。この方の「ま草」は屋根を葺く「茅(かや)」のこと。「カマ」と「キミ」とは互いに同じ仮名、同じ母音の音が無い。それでも「KM」を共にしているので掛けになる。


「もみちばの過ぎにし」とあるその「もみち」は今は「もみじ」と云うけれど、「紅葉(原文:「黄葉」)して木の枝から離れ、散って行く木の葉のようにこの世から去ってしまった」と云うことで、そのお父さま(=「君」)の形見(かたみ)の地と思って、ここ「阿騎の野」にやって来ました、と、人麻呂は「軽皇子(かるのみこ)」の気持ちになって詠んでいる。


そもそも、お父さまである「草壁皇子(くさかべの・みこ)」の「草」を想って「ま草・・」の発句がある。このあいだは「草壁」の「壁」の方のことで第一首の「夢」のことを述べたけど・・


だから、「ま草刈る」から想う「鎌、カマ」と「君、キミ」とのつながりは大事で、その「荒れ野」は「君の形見」であるのだから、「鎌」と「君」とは、人麻呂の技法の常からすると、「カマル(qamar)、月」「カマ−ン(kamān)、弓」と並ぶ大事な「掛け」で結ばれているの。