21. ヤマトタケルの話の筋(1) 弟橘媛


古事記ヤマトタケルの話では、「九夜十日」の他に「日数」のことが二回出てくる。それは、


  「五日(いつか)」と「七日(なぬか)」


なのだけど、「七日」は今は「なのか」とも多分「なぬか」とも云うけど、ここでは一応「なぬか」にしておく。


景行天皇ヤマトタケルを呼んで、お兄さんに「やさしく言い聞かせなさい」と言った後、「五日」たってもタケルの報告がなかった。それでタケルを呼んで、その後どうなったかと聞いたところ、タケルがお兄さんを殺してしまったことを知る。天皇は驚き、タケルに怖れを抱き始めて、それからタケルの非運の半生が始るのだけど、その「五日」のところは、下のように書いてある。


  五日に至りて、なほ参出(まゐで)ざりき



今、日の数え方を書いてみると、


  一日  ついたち
  二日  ふツカ
  三日  みツカ (みっか)
  四日  よツカ (よっか)
  五日  いツカ
  六日  むいか
  七日  なヌカ (なのか)
  八日  やうか (ようか)
  九日  ここノカ
  十日  とをか (とおか)


という風になって、「二日」から「五日」までは「ツカ」の音が付く。「三日」「四日」は今は云うまでも無く「みっか」「よっか」。「五日」はその「ツカ」が付く四日間のうちの最後の日になっている。


  二日  ふツカ
  三日  みツカ (みっか)
  四日  よツカ (よっか)
  五日  いツカ    


この「ツカ」の「ツ」は「天女」のことを「天つ乙女(あまツをとめ)」と云う、その「ツ」と同じで、「何々の」というその「の」にあたるけれども、「ひ、ふ、み、よ、い、む、な」のその「ふ(二)、み(三)、よ(四)、い(五)」のそれぞれに「の日」と付く。「カ」は「日」のことで、それで「・・の日」は「・・ツカ」となる。(「ついたち」は「月立(つきた)ち」の日で、「月の初めの日」のこと。「イ」は「キ」の音便。)


そういう意味の「・・ツカ」だけど、「あさかやま」の歌の「左手」の「左、ひだり」の「ダリ」や、人麿の「阿騎の野」の歌の「宿る、やどる」の「ドル」の場合の音の採り方のように、その「五日、いつか」の「ツカ」だけを採ってみる。そして、それを「坂手池(さかてのいけ)を作りて」の「作り」の「ツク」から続く「TK」の「ツカ」と見るの。


  「五日、いツカ」 (TK)


そういう「ふつか(二日)」から「いつか(五日)」までの最後の日を選ぶことによって、古事記は、天皇は「待ちかねた」、というあたりを表わしている。
                       

それに、「作る」の「ツク」(=「トゥク」)にはエコ−としてギリシャ詞「トゥケ−(tuchē)、運、運命。幸運」があると第8回目の<二鷹>で述べたけど、古事記を読む側としては、天皇が待って「二日」経ち、「三日」経ちしての「五日」までの「ツカ」(=「トゥカ」)のおのおのにそれが感じられ、運命の時が日々刻々と迫って、緊張感が高まってくる。その最後の五日目に天皇はタケルから思いも掛けぬことを聞いて、その日がタケルの悲運の始まりになる。



甲斐国、酒折宮での問い歌で、「新治筑波を過ぎて、幾夜か寝つる」と「筑波」の「ツク」を詠み込むヤマトタケルの心中には、東国への遠征を命じられて以来ずっと、その「五日目」の日のことが悔いと悲しみとともに込められている。



もう一つの日数「七日(なぬか)」は、「走水(はしりみづ)」の海、今の「浦賀水道」と云われているけど、その海に沈んだタケルの后(きさき)、「弟橘媛(おとたちばなひめ)」のくだりにある。


「出雲建(いづもたける)」を討ち、天皇のところに還ったヤマトタケルは、休む間もなく今度は「東国(あづまのくに)」を平らげよ、と言われ、しかたなく東に向かう。


そして、東国に深く入るために「走水(はしりみづ)」の海を渡ろうとした時、その「渡(わた)りの神」が浪(なみ)をおこして海を荒れさせ、タケルの船団の船はぐるぐる回るのみで、前に進めなかった。「渡りの神」はその「浦賀水道」の神さまのこと。


その時、后(きさき)であった「弟橘媛」(おとたちばなひめ)は、自分が海の中に入って、その渡りの神さまを鎮めますから、あなたは立派に務めを果たし、そしてその旨をお父さまにご報告なさいますように、と云って、海に入ってしまう。ヤマトタケルがそうすることだけが天皇の誤解と怒りとを解く道、と媛は考えていた。まもなく波風は静まり、タケルの船団は進むことができた。そのことを古事記は次のようにしるす。


  ここにその暴浪(あらなみ)、自(おのづか)ら伏(な)ぎて、
  御船(みふね)得(え)進みき


この「伏(な)ぎて」は、その「渡りの神」が弟橘媛に伏し従って鎮まった、という文字使いではあるけれど、波風がおさまって海が穏やかになる「ナギ、凪」を意味している。無論この「ナギ」は「ネギ」から続く「NG」のコトバ。


「凪(なぎ)」の字は「風が止む」の義で、わが国で作られた字。中国の漢字には無い。「凪(なぎ)」は「海の波風が静まり穏やかになること」で、「なごむ、和む」「なごやか、和やか」の「ナゴ」に通う。又、「にこやか」の「ニコ」にも通う。


  「伏(ナ)ギて、凪(ナギ)」 (NG)


その「七日」の後、弟橘媛の「櫛」が、穏やかな海の浜辺に流れ着いた。そのことを古事記は次のようにしるしている。


  七日の後、その后(きさき)の御櫛(みくし)、
  海辺に依(よ)りき


「依(よ)る」は波に打ち寄せられて浜辺にあること。「暴浪(あらなみ)、自(おのづか)ら伏(ナ)ギて」とあるその「ナギ」の「NG」もしくは「NK」を反映していると考えられる日数はないかと上の一覧を探してみると、


  七日 なヌカ
  九日 ここノカ


の二つだけが「ヌカ」(NuKa)と「ノカ」(NoKa)の「NK」を含んでいる。「NG=NK」としていいので、日数の候補としてはこの「七日」と「九日」とが挙げられるけど、数「九」はあとで「九夜十日」の「九」が出るので、ここではそれを避けて、古事記


  「七日、なヌカ」


の方を採る。この「七日、なヌカ」の「NK」は、その海の「凪(ナギ)」ゆえであるとともに又、下のことを云いたいがための「七日、なヌカ」の「NK」でもあるの。


御櫛(みくし)が海辺に着き、弟橘媛はやはり亡くなってしまった。そして御櫛のお墓を作った。


  すなわち、その櫛を取りて、御陵(みはか)を
  作りて納(をさ)め置きき


「亡き人」「なきがら」の「ナキ」(NK)はもともとギリシア詞「ネクス(nekus)」(亡き、なきがら)から来ていると考えられるけど、ここでは「エコ−」とか何とか云うよりも、「亡き、ナキ」がこの話での一連の「ウラ」のコトバの一つと表現する方がいい。


  「亡き、ナキ」 (NK)


それと、「御櫛、海辺に依(よ)りき」とある、その「海辺」については「凪、ナギ」、「亡き、ナキ」から、


  「渚(ナギさ)」 (NG)


というコトバも想ってね、と古事記は言っている。


なぜ「渚、ナギさ」であるのかと云うと、「走水(はしりみづ)」の海に沈む前、「弟橘媛」は歌を残すのだけど、「相武(さがむ)」(=相模、さがみ)の国で野焼きの難に遭った時、ヤマトタケルが「草那芸(くさなぎ)の剣(たち)」でもって草を刈り払い、「火打ち」でもって向火(むかひ(い)び)をつけて共に逃れた、その時のことを姫が想っていたから。


  「くさナギ」: 「ナギさ」

              
姫の最後の歌を引いておくね。「さねさし」は「相武(さがむ)」の「枕ことば」と云われている。掛かりは未詳。海の水に沈もうとする媛は、火の中に共にあったその時を思い出すの。


   さねさし、相武(さがむ)の小野(をの)に、燃ゆる火の、
   火中(ほなか)に立ちて、問ひし君はも