ヤマトタケルの話を編んでいる「NK,NG」と「TK,TG」のコトバはあとの回で一覧するね。
今日はその「NK,NG」と「TK,TG」が甲斐(かひ)の国の酒折宮(さかをりのみや)に入って、「九夜十日(ここのよ・とをか)」として出てくる様子を見ることにする。
今まで幾度となく「九夜十日」のことを話してきたけど、どういうことか早めに済ませた方がいいように思うから。
大体「エコー」というものは「掛け」の一種に違いはなくて、「掛け」ということも「エコー」と呼んでもいいくらいだけれど、ただ掛けになっているコトバがその歌の中に姿を見せていなくて、且つ「わたしたちに今まで伝えられて来たやまとことばの語彙(ボキャブラリ)の中に無い」ということでもって、特に「エコー」と呼ぶことにしている。
エコ−になっているそういうコトバが、やまと歌や古事記を理解する上で欠かせないということがいろいろと分かって来たので、「エコーになっているそういうコトバとその他も加えたところのやまとことばの語彙」と「今まで伝えられてきたやまとことばの語彙」とを区別して呼ぶ名があった方が何かと便利だから、「エコーになっているコトバ、その他多少を加えたやまと語彙」を
「汎(はん)やまと語彙」
と呼ぶことにする。「汎」は「広い」という意味で付け加える。
そして、「わたしたちに今まで伝えられて来たやまと語彙」、端的に云うと今ある古語辞書の見出しコトバを皆集めたところのものだけど、
以後ただ「やまと語彙」と云う場合は、
「わたしたちに今まで伝えられて来たやまと語彙」
のことを指す
ということにする。しかし、それと「汎やまと語彙」とはもともとは別のものではなくて、いろいろな言語のコトバがごちゃごちゃになってあったもののうち、云い易い音であったり、意味の使い勝手が良かったりして、何となく皆の共通語的になったものの「集まり」が、今に至るまで「やまとことばの語彙」として伝わってきた。だから「やまと語彙」も「汎やまと語彙の小さな一部を成すところのエコ−になっているコトバとその他多少」も、もともとは同じ「大きな集まり」の中にあったもの。
それで、もし「エコ−」について「古代の外語のコトバ」という言い方をすれば、今の古語辞書の見出しとしてある「やまと語彙」のそれぞれのコトバは、すべてが「古代の外語のコトバ」ということになる。
「汎やまと語彙」を「大きな集まり」のコトバ全部を云うことにしてもいいし、それとも、わたしたちがやまと歌や古事記を読むときに「エコー」として必要とされる程度の、少ない数のコトバとその他多少を「やまと語彙」に足したものと考えてもいいし、そのあいだにはかなりの違いはあるけれど、呼び名ばかり増やしても訳が分からなくなってしまうから、今そのあたりは伸縮自在ということにして置く。
やまと歌で「エコ−」として特によく用いられるコトバの数は知れたもので、実際には
印欧語、トルコ語、セム語のそれぞれの出身の
もの四つか五つくらいずつを覚えるだけで充分。
というのは、大事、とされるエコーの数があまり多いと、歌の中のどのコトバにエコーがあるのか、見分けがつきにくくなってしまうから。
オリンピック村で選手たちが、挨拶のひとつでも、互いに相手の人の国のコトバでもって言えば、親しみが深まる、そういうような感じでエコーの詠み込みが始まったと考えられるから、互いに分かりやすい風でなければ意味がない。
それらを頭に入れて置けばほとんどの歌についてその技法が解けるし、国文学の方面の研究者の人が古代のいろいろな外語の勉強に手を出す必要はほとんどないと思うけど、でもアマチュア的に古今の外語のことを少しだけ知っていればとても役に立つ。
しっかりとやっていけないということはないけれど、下手に本格的に手を出せば、それだけでも大変な国文学の方にさしつかえるようなことになりかねない。ただ、やまとことばというものはそういうものなのだから、古代の外語の研究者の人たちとなるべく連絡を取るようにするといいと思うし、外語の研究をしている人たちも、やまとことばに一層親しめば連絡も楽しくなると思う。
国語学は詞源(=語源)に関わることが多いと思うから、アマチュア的に得意な古今の外語をひとつくらいレパートリーとして持っていても損はないと思うけど、でも広く浅くいろいろの言語のコトバを知っている方が役に立つかも知れない。詳しいことはその言語の専門家に聞いたほうが早い。
おじさんはどれも上っ面しか知らないからやって来れた、どれか一つにでもしっかり通じようと思ったら「やまとことば」のことは分からなかっただろう、って云ってた。
エコ−の数は古事記の話の場合やこの回の「九夜十日(ここのよ、とをか)」の場合にはもうちょっと足さなければならないけれど、それらはそこ以外ではほとんど使われない。
「エコ−」はやまと歌や古事記で大事にされていたコトバであるのに、どうして「やまと語彙」に残らなかったのだろうかという疑問が出てくるけど、それは、
大事にされ過ぎて、周りの様子が変ってしまったあとは、
宝の持ち腐れになったまま忘れられ、神棚に上げっぱなしの
ようになって、そして蒸発してしまったから。
「蒸発してしまった」ということは、そのコトバを知っている人たちが死んでいなくなってしまったということ。敢えて書き記しておく必要もないほど、誰にもよく知られていて、それゆえにエコーのコトバとして愛用されていたそういうコトバであったがゆえに、歌の方向性に変化が出てきたときに、それらは水が引くようにしてやまとことばの環境から消えていった。
昔のある時期から「やまとことば」とそれを話す昔の人たちもわたしたちも、例えてみると、大屋根に上ったまま梯子(はしご)を外されてしまった瓦屋さんと屋根瓦のようなところがあるの。
今わたしたちは古今の外語辞書を自由に手にできるから、その辞書という梯子を降りて、わたしたちの言葉の本籍を確かめることができる。エコ−を知るということは、長い間に滑り落ちて欠けてしまった瓦を補うみたいなもの。
で、新治筑波の問答歌での「九夜十日」だけど、火焼の老人は気が利くというか、タケルの気持ちをよく察するところがあって、ヤマトタケルが、
新治筑波(にひばり・つくば)を過ぎて、
幾夜か寝つる
と「夜の数」を問うているのに、
かがなべて、夜には九夜(ここのよ)、
日には十日(とをか)を
という風に、問われていない「日の数」を添えて答えている。つまり余計なことを答えの中で云っているわけだけど、実はそれをタケルは云って欲しかった。
この「九夜十日」のことは、「問い歌」と、そして「答え歌」、これは「応え歌」とも、「返し」、「返し歌」とも、「答歌」とも云うけど、その問いと答えとのいろいろな関係を略して、今簡単に「九夜十日」のことだけについて云うと、これを英語に訳したもの、つまり、
nine nights, ten days
とあとほんの少しのことで、その半分以上を解くことができる。ここで気が付くこととして、「九夜」では、
nine
night
という風に頭に「N」が共有されていて、しかも綴りを見るかぎりでは「night」は「NG」から成っている。それで「nine」というコトバに近いあたりで「NG」を探してみる、という作業になる。
そして「十日」では、
ten
day
という風に「T」か「D」が頭にあって、その違いは「タ行」と「ダ行」の違い程度のものだから、それで、両方とも「TK,TG」と一部を共有していると見てよく、では「ten」と「day」というコトバに近いあたりに「TK,TG」の形になっているものはないか、という作業になる。
この「十日」の方のことは、火焼の老人が「筑波(つくば)」の「ツク」(TK)と、そしてその他タケルの「問い歌」にあるいくつかのサインに応じて出したものだけれども、無論今まで述べてきたヤマトタケルの話のなかの「五日(いツカ)」や「(詐刀(こだち)の)柄(ツカ)」などの「TK」の脈の中にある。
酒折宮でのことは、「印欧語」(インド・ヨ−ロッパ語)の独壇場とも云えるような具合になっていて、中でもその南欧派と云える「ラテン、ギリシャ語」と、そして、どうしてそうなるのかよく分からないけど、北の方の「ゲルマン派」に属する諸言語のコトバでもってほとんどの部分を解くことができるの。
しかも、その「南欧派」と「ゲルマン派」が「やまとことば」の中で同時に居るのでなければ、答え歌の「九夜十日」のことは成り立つことができない。
なぜかと云うと、なるほど同じ印欧語ではあっても、コトバによって南欧派とゲルマン派とでは無論のこと音韻の変化があって、わたしたちがここで問題にしている「子音」にも違いが出てくる。
「九夜十日」はその南欧派とゲルマン派のコトバの子音の違いを巧みに使った洒落なんだ。だから当然、両者が同時に共に居なければその洒落は成り立たないことになる。それで印欧語に関わる「ヤマト連合」の構成が分かる、ということ。
それに「新治筑波の問答歌」の「問い歌」「答え歌」の双方のつながりを考えると、「南欧派」と「ゲルマン派」の他に「ペルシア派」を加えた方が、問答歌の成り立ちがくっきりとしてくる。そのことは又あとで話すね。
ゲルマン派の言語の子孫としてはもちろん英語、ドイツ語、そしてスカンジナビアなどの北欧の諸言語があるけど、わたしたちに一番親しい英語のコトバでもって、「九夜十日」のことの「四分の三」は辞書を引くこともなく、ほとんど手ぶらで解ける。でも今日は「二分の一」だけやってみる。
手始めに、
night (夜)
ということを見てみると、これは「ナイトゥ」と読むけれども、中に
「-gh-」
がある。これは昔の発音の名残りだけど、この「-gh-」と、頭の「n 」とでもって、この「night」は「NG」のコトバであることになる。でもそのあたりのことは今さておいて、結局は結びつくから、むしろこれと関係する英語のコトバで、よく知られた
「ノクタ−ン」(nocturn)
というコトバについて見てみる。「夜想曲」と訳されるけど、これはラテン語の形容詞、
nocturnus(ノクトゥルヌス、「夜の」)
から来ている。で、このコトバは、
noct-urnus
と分けることができ、そして、その「noct-」(ノクトゥ)は、名詞の、
nox(=noks, ノクス、夜)
から来ている。その
ラテン詞 「nox (= noks)」 (NK)
がヤマトタケルの話の筋の中での「NK」のコトバ、ということ。その兄弟のコトバに、
ギリシャ詞 「nuks」 (ヌクス、夜) (NK)
がある。火焼の老人が返しの中で「夜には九夜」と詠んだ時、その心にあったのは、上のラテン詞「ノクス」(nox)かギリシャ詞「ヌクス」(nuks)だ。
特にギリシア詞「ヌクス」は、「出雲建(いづもたける)」のところでの「抜キし」「抜カず」を思い出させる。
これで「九夜」の「夜」がひとまず決まる。
それで今度は「十日」の方のことになるけど、その「日」について見てみる。
「太陽」ではなく、「ついたち、ふつか」という「日」のことは、英語では無論、
day
だけど、この「day」の「y」はもともとは「g」だった。
「博多どんたく」
というお祭りがあるけれど、その「ドンタク」は、オランダ語の
「ゾン・ダグ」(zondag, 日曜日、=英語の「Sunday」)
から来ていると云われる。その「ダグ」の「グ」はわたしたちにはちょっと発音しにくい作曲家の「バッハ」の「ハ」のような、喉の方から出す「ハ」か「ホ」に近い音らしいけれど、一応「g」という文字が使われているからには、「グ」の音に関係ないことはない。
「zon」は英語の「sun」、「dag」は英語の「day」にあたる。それで「日曜日」、つまり「休日、祭日」ということで「博多ドンタク」の呼び名があるということだけれど、この英語の「day」の昔の形は、
dag (ダグ)
で、オランダ語は英語の「day」のもとになったその昔のコトバの形を残している。「g」が「y」に変わるのは、「書キて」が「書イて」となる「イ音便」と同じ。このことは、英語の「鍵」の義の
「cāg」(キャ−グ、鍵) が 「key」(キ−、鍵)
になるのと同じ。
その「dag」(ダグ)が、ヤマトタケルの話での脈「TK,TG」のコトバにあたると云うことなのだけれども、この場合、その「T」は「D」として出ていると云うことになる。
それで、これからの説明では「TK,TG」の音域を拡張して、
「TK,TG,DK,DG」 を一括して 「TK,DG」
という風に略して表現することにする。
それでつまり、火焼の老人が「十日」と詠むその「日」は、印欧語ゲルマン派のコトバで古い英語にかかわった
dag(ダグ)
かあるいはそれと似た形を持つゲルマン派のいづれかの言語のコトバを想ってのこと、ということができる。
ゲルマン派というわけは、南欧派には「日」の義であって、そして「TK,DG」の形になるコトバがないから。
「日」は今のドイツ語では、
tag(タ−ク)
になる。ドイツ語で「こんにちは」を「グ−テン・タ−ク」("Guten Tag", = "Good day", 「良い日」)というその「タ−ク」。
「太陽」ではなく、「ついたち、ふつか」という「日」のこと、という風に上の方に書いたけれど、実はその古い英語にかかわった「日」という意味の「dag(ダグ)」は、「太陽」と関係があって、もともとは「(太陽が)熱い間の時間」ということのようだ。
だから平均して昼間の12時間くらいの間、ということがそもそもの意味だったようだ。
「(太陽が)熱い間の・・」ということは、「太陽が燃えている間の・・」と同じだから、そこから分かるように、「燃える」ということがそれらのコトバのもともとの意味だったと云われている。
つまり、これら「日」の義のコトバをさかのぼってゆくと、その大もとは、
「デグ」(dhegh)、「燃える」
ということになる、とされている。この綴りにある「dh」や「gh」は微妙にただの「d」や「g」とは違って、わたしたちには発音しにくい音なのだけれども、わたしたちは
「deg」
としても問題があるわけではない。それにそれはわたしたちの
「たく(焚く)」
というコトバに通じる。「御火焼の老人」(みひたきのおきな)の訓みに従えば、「焼」の字が「たく」に充てられる。
わたしたちのこの「たく(焚、焼)」は「グ−テン・タ−ク」(こんにちは)や「(博多)ドンタク」の「タ−ク」と「タク」の音と通じるところがあることが分かると思う。
ちなみに、「やく、焼く」の「ヤク」は、
トルコ詞「yak-(ヤク)」、=「焼く」
から来ている。
印欧語の詞源(=「語源」)研究は段々と精密になっているので、大昔にあったことについて断定的なことはあまり言わなくなって、その蓋然性が高い、というような云い方になっているけれど、ことこの火焼の老人の返し歌に関する限り、その「火焼(ひたき)」ということと「十日」ということについて考えると、「日」の義の「dag(ダグ)」については「燃える」ということと明らかに関連付けている。
酒折宮での夕べ、あかあかと燃える篝火(かがりび)はタケルに弟橘姫の最後の歌を思い出させた。そもそもタケルの問い歌に応えたのが、「御火焼(みひたき)」の老人(おきな)であるということが、そのことを暗に示している。前に書いた姫の最後の歌をもう一度引いておく。
相武(さがむ)の小野(をの)に燃ゆる火の、
火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも
日本書紀の方では、はじめ誰も答えを為すものがおらず、やおら
「武日(たけひ)」
という者が答え歌を詠んだ、とあって、この問答は当時の人たちにとってもちょっとばかり難しいものなのだけど、その「武(タケ)・日(ヒ)」を逆さにすると、
「日(ヒ)・武(タケ)」
つまり「ヒ・タケ」となり、火焼の老人の「ヒ・タキ」とほとんど変わらない。と云うことは、この問答を解くにあたって、「ヒ」と「タキ、タケ」という音が大事なヒントになっているということなの。