週刊誌などに出ているクイズで、「正解は何ペ−ジの下に」などと書いてあるけど、古事記のヤマトタケルの話の筋を読み解くための「一対の子音」については、そのヒントの一つがヤマトタケルの話の終わりのところで、タケルが白鳥になって天に飛んで行った、とある、そのすぐ後(あと)に書いてある。
それは、そこにある短いくだりの中の、
「七拳脛(ナナツカはぎ)」
という名の人の、その「七拳(ナナツカ)」にあるの。
「拳(ツカ)」というのは「握(つか)」とも書いて、これは手の親指を除く指四本を並べて握った時のその幅を云い、約二寸五分、一寸は約3cmだから、約7.5cmになる。「脛(はぎ)」は「すね」のことで、脚の「膝(ひざ)」から「くるぶし」までを云う。それが「七拳(ななつか)」ということは、52.5cmくらいあったと云うこと。今はそれくらいの人は結構いるのじゃないかと思うけど、当時「八拳脛(やつかはぎ)」という名の人もいたようで、つまり、脚が長いということ。
古事記は、ヤマトタケルの物語の終わりのそのところに、タケルが各地を平定するために、西へ東への遠征に出かけた時は、いつも「七拳脛(ななつかはぎ)」が食事係りとして付き従っていた、としるしているけど、そのくだりは次のようにしてある。
およそこの倭建命(やまとたけるのみこと)、国を平(ことむ)けに
廻(めぐ)り行(い)でましし時、久米(くめ)の直(あたへ)の
祖(おや)、名は「七拳脛(ななつかはぎ)」、つねに膳夫(かしはで)
として従ひ仕(つか)へ奉(たてまつ)りき
「久米(くめ)の直(あたへ)」は「姓(かばね)」の名。「祖(おや)」は先祖。「膳夫(かしはで)」は「六雁(むつかり)」がその任にあずかったところものと同じで、お食事の係。「平(ことむ)く」は平定すること。
この「七拳脛」のくだりはどういうことかというと、お食事の係であるという七拳脛は常にタケルの身近に居る、ということで、それは「タケルの身に起こることすべての近くに在る」、ということ。これを「話の筋の運び、展開」ということからすると、つまりそこには必ず「七拳脛の影」がある、ということになる。
それで、ヤマトタケルの物語りを読むにあたって、その話の筋を読み解くには、物語の記述に沿って「七拳脛(ナナツカはぎ)」という名を念頭に置きながら考えるといい、と古事記は云っている。そうでなければ、タケルの人生の大事な最後のところにお供の者のことをわざわざ書いたりはしない。
ただ、この場合、「脛(はぎ)」は横に置いておいて、「七拳」に注目してみる。そして、
「七拳(七・ツカ)」
という風に、「七」と、そして「拳」の訓み「ツカ」とに分けてみる。そうすると、思い当たることがある。「七」は、弟橘媛のくだりで、
故(かれ)、七日(なぬか)の後、其の后(きさき)の御櫛(みくし)
海辺に依(よ)りき
とある、その「七日」。そして「ツカ」の方は、そもそもの話の始まりに、タケルが、お父さんの景行天皇から「泥疑(ねぎ)教へ覚(さと)せ」と云われてから、
五日(いつか)に至りて、猶(なほ)参出(まゐで)ざりき
とある、その「五日」。
大事なことは、「七日」と云っても、その「七」に重点があるのではなくて、「五日(いツカ)」の「ツカ」の場合と同じく、「七日(なヌカ)」のその「ヌカ」の方に重点があると見ていいということ。そして、
「ツカ」は「TuKa」で、一対の子音「TK」
「ヌカ」は「NuKa」で、一対の子音「NK」
のことを云わんとしていると思う。
「七拳脛」の名は日本書紀の方にも出ていて、古事記はこの名を技法的に応用しているわけだけど、しかし、そういう名がこうもうまい具合にあったものだと思う。
こうした「一対の子音」に付いてのヒントは「七拳」の他に、あと三つある。
はじめに「TK,TG」について云うと、ヤマトタケルが東征ののちに帰途に就き、「尾張(をはり)」の国に寄り、そこを発(た)って「當藝野(たぎの)」と云うところに来た時、足に疲れを覚えて歩けなくなった。その時のヤマトタケルの言葉。
今、わが足え歩まず、當藝當藝斯久(タギタギシク)なりぬ
「たぎたぎしくなった」というのは足がギクシャクしてきた、ということだろうけど、古事記の原文ではこの「當藝當藝斯久」のすぐ下に、
「當より下の六字は音をもちゐよ」
という注が書いてある。それはなるほど「その六字については、訓読みでなく、音読みにせよ」と云っているのだけど、これは単に漢字の読み方を示しているだけではなくて、同時に、今の云い方で言えば「當藝當藝斯久」に「アンダ−ライン」を施しているのと同じ役割をしている。この場合、終りの「斯久(しく)」は今無視していい。
これはつまり、「當藝當藝(タギタギ)」と「タギ」(TaGi)を重ねて、その子音「TG」に留意せよ、と云っているのと同じ。そして、出されているのは「TG」ではあるけれども、実際には「TK,TG」のことを意味している。
「NK,NG」についてはどうかと云うと、この物語のそもそもの始りとなった、景行天皇の大事な、
泥疑(ネギ)教へ覚(さと)せ
という言葉の、その「ネギ(泥疑)」だけど、原文にはその言葉のすぐ下に、「泥疑」について、
「泥疑の二字は音をもちゐよ」
という風に、「泥疑」の二字は「訓読み」ではなく「音読み」によって読むように、つまり「ネギ」と読むように、との注が書かれている。
「泥疑」をなぜ「ネギ」と読むのか不思議な感じがするけど、「泥」の字は、訓読みはもちろん「どろ」、音読みの方は、漢音では「デイ」、呉音(ごおん)では「ナイ」で、後者により、奈良時代には「ネ」の音に用いられた。
「NK,NG」については更に念を入れる形でまだある。タケルが東国に赴く時に、伊勢神宮にいる叔母の「やまと姫(倭姫)」をたづね、自分の苦しい胸の内を泣く泣く打ち明けるのだけど、そうして立ち去ろうとする時、叔母はヤマトタケルにかの「くさなぎの剣(たち)」を授ける。その「くさなぎの剣」は古事記原文に従えば、
「草那藝剣」(那藝の二字は音をもちゐよ)
という風に、「那藝」の二字は「ナギ」と読むように、と注が書いてあるけど、これもやはりアンダ−ラインの機能をもつ。
読み方について注が書いてあるところのすべてが、話の筋に関わる一対の子音を示すためのアンダ−ラインの機能を持っているわけではなく、普通は、漢字の訓読みではどうしても表現しにくい名前などの発音を示すために用いられるけど、その中にアンダ−ラインの機能も併せて担っているものがある、と云うこと。単に読み方のためであるものと、見分けを付けなければならない。
「當藝當藝(タギタギ)」は一句のうちに印象的に「TG」を繰り返している。「泥疑(ネギ)」と「那藝(ナギ)」とは、離れてはいるけど、これら二つで「NG」を繰り返していることになる。それによって古事記は「NG」、詳しくは「NK,NG」が話の筋を導く「一対の子音」であることを示している。
そしてこれらは、「七拳」(七・ツカ)のことと共に、
「NK,NG」 と 「TK,TG」
がヤマトタケルの話を織り成す二つの「一対の子音」であることのヒントとして出されているの。
(「ヤマトタケル」、つづく)