12. 眠り猫、鐘、芭蕉、筑波、おつくり


地固めのためにちょっと遠回りして、後で「アレクサンドロスの後とロ−マ」のタイトルに戻って、ユ−ラシアでの地理的な経路などについて話すね。皆、密接に関係することなの。それに、各回、長いと読むのが疲れるから、少し短めにする。


「後で詳しく説明する」ということをたびたび云うけど、次第にその回、その回だけでは納得できないところが残ることが多くなってくると思うけど、回を追って行けば分かるようにする。どれもこれもみんな蓮の根みたいにつながっているので、その都度話しの切り方が難しい。



それで先回の続きだけれど、「眠り猫」の「猫」の「ネコ」という音は、実は京都の「方広寺」の例の「大坂冬の陣」のきっかけとなった「国家安康」と「君臣豊楽」の銘で有名な「梵鐘」と関連づけられているの。


その鐘銘では、「家康」の二字が「安」の字でもって裂かれている、徳川家康を呪うもの、とされたにも関わらず、当の鐘(かね)は鋳潰(いつぶ)されることもなく、不思議と今もそのまま残っている。


大坂冬の陣の発端となった証拠として残しておく必要があったから、ということも云われているけど、しかし、徳川の世ともなればもう証拠の必要も無く、そして何よりも、家康、徳川を呪っているとされているわけだから、それが残っているということは・・


でも、そもそもが云い掛かりであり、徳川方でも誰しもそう思わないものはいなかっただろうし、梵鐘と銘そのものには実際何の悪いところもないわけだし、せっかく造った鐘にもしあまりに無体なことをすれば、お寺さんの方の関係とか、それに京の町の人たちにいい感じを持たれなくなってしまうとか、いろいろとあるだろうけど、しかし理由としては次のようになる。



それは、徳川方がそこに「家康」が在ると云い出したわけだから、もし鋳潰せば、当の家康を焦熱地獄にさらすことに、且つ又家康を消滅させてしまうこと、亡きものにしてしまうことになる。

しかしその鐘は、家康を呪っている、とされているわけなのだから、その呪いをなんらかの方法で中和、解毒して、しかも不吉を吉に転じなければならない。

天海和尚が考えたその方法としてあるのが、日光東照宮の「眠り猫」なの。と同時にその「猫」は、方広寺のその「鐘」が無くなれば、意味を失ってしまう。




和尚がどのようにしてその鐘の解毒を行い、且つ徳川家の安寧を祈願したかというと、それは実に簡単な方法で、その「鐘」を逆さにした。それで呪いをお守りに変えたの。


つまり、「鐘」の「カネ」の仮名二音を逆さにして「ネカ」にする、そして「カ」の音を「カ行」の中で動かして「コ」にして、「ネコ」にした。その時、和尚は景行天皇ヤマトタケルの「ねぎ」(泥疑)の一件を思っていたはずだ、って。


こういう場合、一般的に云って、その「ネカ」(NeKa)、「ネコ」(NeKo)、を作る「一対の子音」である「NK」は変わらないので、その「カ行音」の変更には問題がない、という、そういうル−ルがやまとことばの技法の中にある。ロ−マ字のような表記は持たなかったけど、万葉以前のずっと昔から、「やまとことば」を話す人々にとって、観念としての「子音」はちゃんとあった。


「眠り猫」が居る鴨居の下を抜けて外に出ると「坂下門」(さかしたもん)があり、そこを通り抜けると、左手に長い坂道があって、家康が眠る「奥社」に至る。その坂道は、途中三度折れ曲がるので、「三ツ折坂」(みつをりざか)と呼ばれているけど、「眠り猫」の「ネコ」のことは、更にこの「三ツ折坂」のことによって確かめることができる。




ヤマトタケルが「東国」(あづまのくに)を平らげた後、甲斐の国に入って「酒折宮」(さかをりのみや)で休憩した、その時に、タケルは来し方をかえりみて、「新治筑波(にひばり・つくば)を過ぎてから、幾夜(いくよ)寝たかなあ」という歌を詠んだ。


     新治筑波を過ぎて
     幾夜か寝つる    


すると火の番をしていた老人(おきな)が、「ずっとかがり火を焚いてきまして、九夜(ここのよ)と十日(とをか)になりますけど・・」というような答えの歌を詠んだ。


     かがなべて、夜(よ)には九夜
     日には十日を


この答え歌は、「三泊四日です」と云うのと余り変わりないような感じで、何ということもないような歌なのに、タケルは大いに感ずるところがあって、褒美として、苦悩と苦心の末に平らげた東(あづま)の国一つを、その老人(おきな)に与えた。・・どうして?と思うでしょ。


実はこの答え歌は七重八重の掛けがある大変な歌で、時下って「連歌」(れんが)のことを「筑波の道」とも云った。問い歌の方も問い歌で、いい問い方をしている。この先順々にその解について話していくね。東照宮の「三ツ折坂」は、このことと結ばれている。



奥の細道」で芭蕉は、


    あらたうと、青葉若葉の、日の光


と作っているけど、初案は弟子の「曾良」(そら)の書留めたところによると、


    あなたふと、木の下暗(このしたくら)も、日の光


再案は真跡、他にある、


    あらたふと、木の下闇(このしたやみ)も、日の光


と見られている。句のこころは、奥の細道の文章にもあるけど、家康公の遺徳は世の隅々にまで光をもたらしている、と云うこと。


そこのところの文では、「日光」は昔は「二荒山」(にこうさん)と書いたけど、後に「日光」と改められたといういきさつに触れている。


発句は初案から「あなたふと」、「あらたふと」、「あらたうと」へと変わっている。


「二荒」は「ふた・あら」と読める。「あらたうと」を再案の「あらたふと」のように「ふ」を元に戻して、その「あらたふ」を「アラ・タフ」と区切ってみる。そしてその前後を換えると、「タフ・アラ」となる。そこで「タフ」だけ再びさかさまにすると、「フタ・アラ」となって「二荒」になる。


芭蕉は、初案の発句を見ているうち、気付くところがあって、やや趣を変えた。「方広寺の鐘」から「眠り猫」に至る経緯に思い至って、天海のその方法を「二荒」の「ふたあら」でもって再現している。「青葉」(あをば、あおば)では「葵」(あふひ、あおい)、つまり徳川の家紋を思っているはず。


再案の「あらたふと」の「たふと」をわざわざ「たうと」としたのは、少し分かりにくくするためで、文で「猶(なを)憚(はばか)り多くて、筆をさし置(おき)ぬ」としているのは暗にそのことも指している。つまり、「鐘」と「猫」のいきさつや「三ツ折坂」のことは芭蕉の頃でも理解できる人々がまだいた、ということなんだ。              



本歌取り」(ほんかどり)、というのは或る良く知られた昔の歌を題材にして、それを踏まえた歌を作ることだけど、やまとことば、やまと歌は、「掛け」の技を駆使しながら千年の時を越えて、文字通りのその「本歌取り」や又「それみたいなこと」を繰り返している、ということ、段々と分かって行ってもらえると思う。 


例えば、「お刺身」のことを私たちは普通に「おつくり」と云うけど、そういう言い方をするいきさつは、今しがた話した古事記景行天皇ヤマトタケルのこと、そして「酒折宮」での「新治筑波」の問答歌のところから始まっている。


つまり「おつくり」という云い方は実は「本歌取り」になっている。結論を云ってしまうと、「筑波」(つくば)の「ツク」が掛かっているわけだけど、そのあたりの話がちょっと混んでいるの。