11. アレクサンドロスの後のこととロ−マ(1)


話の順序を考えていたらすっかり日がたってしまった。途中で切るのが難しくて、長くなってしまう。でも、読みにくいから、このタイトルはやはり数回に分けて話すことにするね。


アレクサンドロスがペルシアのバビロンでその短い生涯を閉じた時、もろもろのことが入り混じったまま壊れていた。血塗られ、特に混乱が大きかった地域では、地元の人々、そして外から来て後に残された人々はしかしいろいろと考え、工夫をしつつそれを乗り越えようとした。


ギリシアとペルシアが互いに影響し合うことは、アレクサンドロス以前からあったけれども、もしアレクサンドロスの遠征のことがなかったならば、「やまとことばの元となった言葉」が形造られ始めることもなかっただろうし、そして極東のこの列島の、「やまとことば」を話す人々の子孫が居る、というこの日本という国もなかっただろう、って。


でも、その人々がこの列島に実際に到達したということには、今度はアレクサンドロスの後300年プラス100年から200年くらい経った頃か、もしかしたらもう少し後、そのあたりのことは歴史家、言語学その他の研究者の人たちの調査研究に期待するけれど、「東の果てに行く」という彼の遺志を継いだ「ロ−マ」の関わりがなくてはならなかった、とおじさんは云ってた。


朝鮮半島に何らかの痕跡がきっとあるはずだと思ってたけど、新羅がロ−マの暦(こよみ)、つまり「ユリウス暦」を使っていたことがわかって、余程安心した、って。ユリウス暦は、「ユリウス・カエサル」(ジュリアス・シ−ザ−)が定めた、前に話した、各月が二ケ月ずつ遅れることになったその暦(こよみ)だよ。


これからユ−ラシアでの推測される経緯について話すことは、少なくとも今までは歴史の記述には見えなかったこと、どこかに記述があったとしてもいまだ見つけられていないか、多分十分に解釈されていないと思われることで、ただ、やまとことばの語彙のなかのコトバの塩梅や、やまと歌の技法古事記の話しの中の技法、などから考えれば、どうしたって否めないことなの。


「校倉(あぜくら)書房」から出ている「山中襄太(じょうた)」(明治28年、三重県生まれ)という人の「国語語源辞典」に書かれていることは、おじさんが調べて分かった限りのことについては、まちがいない、って。三十年近く前に図書館でちょっと見てそう感じたけど、おじさんはあまのじゃくで、自分の方法だけで進みたかったので、それきり、二年程前に買うまで手に取らなかった。そして細かに見てみたら、まちがいがなかった、って。「せり」(芹)のことも、「さらば」のことも出ている。


アレクサンドロスの後」のことからギリシア、ペルシア、その他ロ−マを含む他のいくつかの要素、それは「セム語」(シリア語、ヘブライ語アラビア語、等の言語グル−プのこと)も含むけど、それらが混じり合って「やまとことば」というものを形造りつつ、極東、日本列島に達した、といっても「言語」とか「芸術」とかいった要素だけが極東に達したのではなくて、そういうものを身に着けた「人々」そのものがこの列島に着いた、ということなの。そしてそのことは「ロ−マ」抜きには考えられないんだって。


それで、「アレクサンドロスの後」と「ロ−マ」とはどのようにしてつながったのか、そのことの説明が問題になる。


今までの「掛け」などの仕組みの説明と違って、そういう歴史的なことは、いわゆる「仮説」のところが大きいのだけど、でもこれから話すユ−ラシアでの推測されることがらの、その方向性を、この先いろいろな分野の研究者の人たちに共同して検証して行ってもらいたいんだっておじさんは云ってた。



西アジアの西部地域、つまり今のトルコの東部やそれに今のアルメニア、それからイランの西端部、それらを併せた地域は「高地」になっているけど、ロ−マ期には、それらの地域を皆併せたところが「アルメニア」だった。そのあたりが原産地になる「タルホコムギ」という種類の小麦があるの。


現在、中国、朝鮮、日本で成育している種類の「パン小麦」の元になった小麦の一つであるということなんだそうだけど、謎だったその伝播(でんぱ)のル−トが、「天山山脈の北側」を通っていることが、18年前(1990年)に、横浜の「木原記念横浜生命科学振興財団」による3年間の調査によって確かめられている。


そのタルホコムギは天山山脈の北側にある「イリ」という地区の二か所で自生していることが確認された。「イリ」地区は、昔「イリ」(伊犁)という名で今は「イ−ニン」(伊寧)と呼ばれる都市がある地区だけど、その都市は昔はまた「クルジャ」とか、漢字で書くと「弓月城」とか、なぜそういう字を使ったのだろうか、なんだか「鎌」のことを思わせるような、小麦のことも併せて意味ありげな名前でも呼ばれていた。でもここで考え過ぎてもいけない。



この「イリ」(伊犁)という都市は、西から来ると「天山北路」の途中、丁度「天山山脈」の東西の幅の中頃、その北の裾あたりで南側に分岐して70km程行ったところにある。


もし、分岐点で真っ直ぐ東へ進んだ場合、直線距離(以下皆同じ)で東400kmのところに「ウルムチ」があり、そこからさらに東へ行くと600kmのところに「ハミ」(哈密)がある。そこは昔は「伊吾」とも書いた。ウルムチとハミの中頃に「トルファン」がある。ウルムチからハミに至るまで、北約500kmのところを「アルタイ山脈」が東西に走る。


「ハミ」からそのまま東の方向へ進んだ場合、今の地図によると、「モンゴル高原」と「ゴビ砂漠」の間を通ることになり、そして、今の中国で言えば、「内モンゴル自治区」に入る。こうしたあたりは、二千年前後むかしは遊牧族の「匈奴」(きょうど)やその後の「鮮卑」(せんぴ)の縄張りで、どうやって通過するかが問題だけど・・ その先は「吉林省」で、南に「朝鮮半島」がある。「ハミ」から朝鮮半島の付け根まで直線距離で凡そ2500km。鹿児島市稚内市とは直線距離で凡そ1700kmになる。


因みに、「ハミ」から南南東に向かうと、250kmのところに「玉門関」があり、そこを通ると「敦煌」に入る。そこから東南にいわゆる「河西(かせい)回廊」が長城の南側、つまり内側に沿って700km程走り、そこを通過して中国内部の「長安」、「洛陽」へと至る。「河西」というわけは、「黄河」が大きく湾曲して流れる、その西に位置するから。


中国内部から玉門関を出て、西に向かうとタリム盆地に入り、ここがいわゆる「西域諸国」(中国から見ての)で、「西域北道」と「西域南道」とがある。これらは盆地西端の「カシュガル」で交わって、そこから今の「キルギスタン」や「タジキスタン」に入る。いわゆる「シルク・ロ−ド」だ。


「西域北道」は天山山脈の南の裾に沿っているので、これを「天山南路」とも言う。それに昔は盆地内部の「西域北道」と「西域南道」をそれぞれ「天山北道」、「天山南道」とも云っていた。「路」と「道」の違いがあるけど、まぎわらしくて、間違えやすい。


そのタルホコムギのル−トは天山山脈の南側にあるタリム盆地の南北二つの道や、それにチベットは通過していない、ということだそうなの。            

タルホコムギは高地適応性、耐寒性の有用遺伝子を持っていると推定されて、麦の品種改良に役立つ、と発見当時のコメントにある。




大事なことなのに今こともなげに云うけど、やまとことばの


   「すめろき」(天皇


というコトバはラテン語から来ている。後の回で説明するね。「率いる、引率する」という意味の


   「あどもふ」


というコトバもラテン語から来ている。柿本人麿の長歌に、


   御軍士(みいくさ)をあどもひ(安騰毛比)たまひて


とある。今、その「あどもふ」のことだけ先に説明すると、


    ラテン詞「アドゥ・モウェオ」(ad-moveo)


が、「私は(人、兵士、等を)率いる」という意味なんだ。「ad」は「方向」のニュアンスを添える。「moveo」(モウェオ)は英語の「move」(ム−ヴ)の元になったコトバで、言うまでも無く「動かす」ということ。それで「(兵士などを)引率する」という意味になる。


ラテン語の「V」は子音としては現在のような[v](ヴ)の音ではなくて、[w]の音。だから「moveo」は「モウェオ」。やまとことばではその「V」はハ行音に変わって、「(アド)モフ」になる。



これらのことや、そして「さらば」「ありがとう」という挨拶として基本的なコトバがラテン語であることから、おのずと察するべきところがあるのかもしれないけれど、しかし、それでもロ−マ人が引率していたとはまだまだ決め付けられない。


最近はほとんど聞かないけど、少し以前まではお金のことを「お足」(おあし)と云う人がいた。中国のものの本で、お金は翼がないのに飛び、足が無いのに走る、と書いてあるということも云われているけど、ラテン語で「アス」(as)は青銅貨幣の単位なんだ。こういうことも歴史的な検証の材料になるのでは・・


今までぽつぽつとラテン語のことを話してきたけど、やまとことばの中での「ラテン語の混在」、ということに限って云えば、それが決定的になることが、古事記の「景行(けいこう)天皇」のところにあるヤマトタケルの話しの中にあるの。



タケルのお兄さんは、或る若気のいたづらがばれてしまい、気まづくなって食事に出て来れなくなった。お父さんである景行天皇は、そのことを心配して、お兄さんが食事に出て来れるように、「やさしく云って聞かせなさい」、とタケルに云う。つまり、


    ねぎ(泥疑)教へ諭(さと)せ


という風に云ったわけだけど、その「ねぎ」は「ねぎらう」の「ネギ」。しかし、五日たってもお兄さんは出てこない。気になった天皇は、タケルを呼んで、ちゃんと云ってくれたか?と尋ねた。するとタケルは、「もうやさしくしてやりました」と答えた。つまり、


     既にねぎつ


と答えた。で、天皇は、どういう風にやさしくしてやった?と聞くと、タケルはあれこれと次第を説明したけど、それは結局「兄を殺した」、ということに他ならなかった。お父さんはびっくりしてしまって、その時初めて、「ねぎ」というコトバの或る事情があったことに気が付いた。



ペルシア語では「ネキ」とか「ネコ」とかいうコトバは「やさしさ、親切」とか「やさしい」という意味で、それが「ねぎらう」(労う)の「ネギ」。


ペルシア語のやや古い形では、


  「ネーキー」(nēkīh)が「やさしさ、親切」(goodness)や
                    「徳」(virtue)という意味の名詞、

  「ネ−ク」(nēk)、「ネ−コ−グ」(nēkōg)が「良き、善き」(good)
                     という形容詞で、


今の形では、

  
  古形「ネーキー」が、「ネキー」(nekī)に、

  古形「ネーコーグ」が、「ネコ」(neko)、もしくは「ネクー」(nekū)


になる。今のペルシア語では、「ネコ何々」と云うとその「何々」に「良き」とか「幸いな」と云う意味を添える。


口で云ってみると、「ネ−キ−」や「ネキ−」の場合は云いやすいけれど、「ネキ」はちょっと云いにくい。それでやまとことばでは「ネギ」と濁る。「ガギグゲゴ」のような濁音を私たちは「強い音」、と言う風に普通考えるけど、そうではなくて、「ネキ」の「キ」は息を舌で一度しっかり押さえてから出さなくてはならないので、強い音で、ちょっと疲れる。

「ネギ」となると「ギ」は「ネ」の息をそのままつづけて「ギ」に移れるので疲れない。そういう意味で「ギ」は「キ」より本当は弱く、柔らかい。それで「ネキ」は「ネギ」になっていく。



たとえば「カタ」という音を考えてみると、「肩」もあるし「型」もある、「潟」もあるし「固い」の「かた」もある。決着を着けるという意味の「カタを付ける」の「カタ」もあるし、方向の「方」もあるし、「お方さま」という貴人の女性を指す「かた」もある。


これらは皆、多少違う音や、もう少し長い形を持ったそれぞれの意味のコトバを、単に「カタ」と云う方が云い易い、ということでもって「かた」と云うようになった、その結果。


「やまとことば」ではむつかしいことは止めにした結果、そういう重なりが出て来た。でも、前後のことでもって意味は大方は通じる。


「カタにのせる」と言えば「肩」のことだし、「カタがこる」と云っても「肩」だ。でも「カタにならう」と言えば「型」のことになる。仮名二音分で大体ことは足りる。これがやまとことばの基本の考え方、大混乱の中から生まれた知恵なんだ。


それにしても、云うまでもないことだけど、上のような説明ができるということには、漢字というものがとても役にたっている。漢字はやまとことばの「舌足らず」の分を補ってくれる。


いろいろな言語のコトバの語尾(=詞尾)だの、細かな発音の違いはどうでもいい、とにかく頭から仮名二音分だけ採る。そしてその発音が云いにくいものだったら、子音を変えずに母音を変える。


例えば仮に「クテ」とか「ケテ」とか「カト」になったら、それは云いにくいから、その音は捨てて「カテ」とか「カタ」にし、或いは濁音に変えて「カド」にする。そういうことで本当にだいたい用が足りてしまう。「カタ」は云いやすい音なので、とかくいろいろなコトバはそこに「収斂」(しゅうれん)する。それで「カタ」という音ではいろいろな意味が「混む」ことになる。



ギリシア語の「カラクテ−ル」は英語の「キャラクタ−」の元になったコトバだけど、その頭の仮名二音分の「カラ」が「ひとがら」(人柄)の「から」になる。それは今の人が「キャラクタ−」を「キャラ」と言うのと同じ。


例えば、「武士」というのはこういうものだ、「あきんど」というのはこういうものだ、ということを「武士かたぎ」「商人かたぎ」と云って、「気質」と書く。それは遊び人が「堅気」になるというその「かたぎ」とは違う。


「気質」の方の「かたぎ」は、ギリシア語の「カテーゴリア」(katēgoria)、つまり「カテゴリ−」(英詞 category)ということで、「範疇」(はんちゅう)などという書けないような字もあるけど、とにかく「カテーゴリア」は長いので、そこから「カテゴ」だけ採り、それが音転して「カタギ」になる。「カタ」は義がこみあっているので、こういうちょっと実用性の少ないコトバは「ゴ」まで採って三音になる。


いろいろと見てきたけれど、その音転にこれと言った規則性はないみたいだ。




横道に逸れたけれど、「ネギ」にかかわるペルシア語系の「ネキ」「ネコ」がある一方、


  ラテン語に「ネコー」(necō)


という動詞があって、こちらの方は「殺す」という意味。ラテン動詞「ネコー」(necō)は、一人称単数現在形で、辞書の見出しがそうなっているので、「ネコー」という風にここで云っている。


仮に、殺す、という意味の「ねぐ」という四段活用の動詞があったとすると、天皇の言葉にある「ねぎ教え・・」の「ねぎ」を、その動詞の連用形と見ることができる。四段活用は、「ネガ、ネギ、ネグ、ネゲ」という風に、二つ目の音の母音が、この場合は「ガ行」の中で変わる。


でも、私たちはそれぞれの仮名二音は「一つの同じコトバ」と考える。今の活用で云えば五段になって「ネゴう」という具合に「ネゴ」という形も入ってくる。そういうことからしても、タケルの耳の中で「ネギ」から「ネゴ、ネコ」へと移るのはごく自然。


このラテン語の「necō、ネコー」と親戚である


  ギリシャ語の「nekus、ネクス」は「死体、なきがら」、もしくは形容詞的に
      「死んでいる」「亡くなった」という意味。


この「ネクス」の「ネク」が実は「なきがら(亡骸)」や「亡(な)くなる」「亡(な)き人」というその「ナキ」や「ナク」。



ラテン動詞「necō」の意味は、「殺す」ではあっても、短刀や太刀で刺し殺すとか斬り殺すとかいうことではなくて、紐で首を締めて殺す、といった殺しを意味する。

タケルが兄を殺した時の様子をこまごまと説明して、最後に、「薦(こも、=むしろ)に包んで投げ捨てて置きました」、つまりは「簀(す)巻き」にして殺した、と云ったのは、結局「ネギ」の意味どおり、お父さんがおっしゃるとおりにやりました、と云っているわけなんだ。

天皇は、末恐ろしい子だ、と思った。


日本書紀ではこの親子は仲睦まじいのだだけど、古事記ではこの時から景行天皇とタケルの間に埋めがたい誤解が生まれて、それでタケルは初め西へ、次に東への遠征にやられることになって、東の遠征を命じられた時にやっと、もう生きて帰ってくるな、という父の気持ちを悟ることになるの。


東の方の遠征に行く前に、伊勢神宮に居る叔母のところに寄り、自分はわざと曲解したわけではなく、本当に「殺せ」という意味で受け取ってしまった、とさめざめと泣きながら打明ける。


古事記には、その会話で「<ネギ>という同音異義のコトバの誤解」のことが話された、とは記されてはいないけど、ある方法でそのことを読者であるわたしたちに伝えている。それが古事記の「技法」になるのだけれど、そのことは後で説明する。



この話しの仕組みのことは、ごく限られた家門で江戸初期頃までは伝えられていた形跡があるの。それはかの「南光坊天海」が建立に関係した「日光東照宮」の「眠り猫」なんだ。