やまとことばは、造語力(=造詞力)にどうしても限界がある。一方、漢語は現代的には使いにくいところもある。
英語のコトバの95%以上はラテン語、ギリシャ語から来ている。漢字漢語も英語ももちろん大事だけれど、おじさんは日本語なりに日本語としての現代的な造詞(=造語)の方法を考えて、ラテン語の辞書を買ってみた。そしたら、やまとことばにはとうの昔にラテン語が入っていた。
それでおじさんは驚いてしまって、それからいろいろと始まった。そして入っていたのは、ラテン語だけでなくて、誰でも知っている幾つかの名高い言語だった。
今日は「あながち」というコトバについて話そうと思うけど、その前に、この間からの「鎌」についてちょっと整理しておくね。
「古事記」の「景行(けいこう)天皇」のところ、そこは「ヤマトタケル」の話なんだけど、尾張の国の美夜受姫(みやずひめ)のところでヤマトタケルが詠む歌が、
ひさかたの、天(あめ)の香久山(かぐやま)、
利鎌(とかま)に、さ渡る鵠(くび)、・・・
いう風にある。「鵠(くび)」は白鳥。香久山が見える宵の空に白鳥が飛んで行く光景を詠んでいるけど、その「利鎌」(とかま)は、「するどい鎌」ということで、光冴える「三日月」のことを云っている。
外国では鎌を不吉なものとするところもあるようだけど、やまと歌では、鎌は「かま麻呂(マロ)」、つまり「かま君」という風に親しみを込めて呼ばれることもある、そういう風なもの。
形が似ている上に、「カマル」(月)、「カマ−ン」(弓)の頭の仮名二音分が同じということで、草刈りの道具は「かま、鎌」という呼び名になったけど、歌では反対に上のように「三日月」のことになる。
けど、月は満ち欠けするもので、三日月から半月、そして満月になる。だから、やまとことばの技の中では、「かま、鎌」というコトバはその成り立ちの事情に必ずしもこだわらずに、「カマル」(月)の頭の二音とのつながりでもって、三日月であれ半月、満月であれ、「月」そのものを指すこともあるの。「鎌足」(かまたり)の名のことはそういう風にして見る。
柿本人麿の「阿騎(あき)の野」の四首でも、「ま草刈る」ところの「鎌」は、歌の造りや流れでは狩りの弓を思わせる「三日月」のイメ−ジで使われているけど、その一方で、その「カマ」は「カマル、月」そのものとして、夜が明けても空に残っている「有明(ありあけ)の月」としてのイメ−ジで使われてもいる。
「有明(ありあけ)の月」は「十六、七夜過ぎ」のものという風にものの本に書いてあるけど、その四首に先立つ長歌にあるような「み雪降る安騎の大野」で夜明けに西に沈みかかるような月はどんな月なのか、いつごろそうなるのか、おじさんは以前その目で確かめようと思い立ったけど、いつも確かめ損ねていて、とうとう長年分からずじまいでいるけど、日と月の位置から普通に考えてみて、三日月とはだいぶ違うだろう、天文学に詳しい人に聞いてみたい、と云ってた。
それで、「あながち」というコトバだけど、これは「・・は・・だけれど、かと云って、あながちに・・であるとは云えない」といった具合に使われるでしょ。「強(あなが)ち」という風に書くけど、辞書には「一概に」、「必ずしも」と説明してある。
やまとことばの中で、これと云ってつながりがあるような他のコトバが無くて、分解してみてもせいぜい「あな・がち」というくらいにしかならないし、それに字を当ててみても「穴・勝ち」といった風にしかならない、でもそれでは意味を成さないし・・
霧をしのぎ、あながちに行く
と書いてある。原文では、
凌霧強行
となっている。「霧を押し分けるように、強いて進んで行った」ということだけど、「強行」を「アナガチニ行く」と読んでいる。
この「あながち」というコトバは実はギリシャ語で「強いる」、「強いて何々する、させる」という意味の動詞、
「アナンカゾ−」(anagkazō)
から来ている。ギリシャ語では「-gk-」という風に k の前にある g は鼻に掛かった「ン」の音になる。
「語る、カタログ」のところで話したように、これ一つで「私は強いる」という意味になる。一番簡単な形なので辞書の見出しはこの形で出ている。それに「あながち」というコトバはやまとことばには珍しく仮名四音分をそのまま採っている。最後の一つでは「ゾ」と「チ」の音の変化があるけど可能な範囲内。
この「強いる」という意味のギリシャ動詞は、「力」(ちから)という意味の
「アナンケ−」(anagkē)
というコトバから出ている。この「アナンケ−」というコトバは、かの「アリストテレス」の哲学で「必然性」という概念を表すのに用いられた重要なコトバ。
なぜ「力」という意味のコトバに「必然性」の意味を持たせたかというと、「必然性」というものは逆らいようもなくて、人に強いるようにしてあるから。
そして、ギリシャ詞「アナンカゾ−」には「強いる」という意味だけではなくて、
必然的に・・である、と主張する
という意味もある。
ここで今、ギリシャ詞「アナンカゾ−」とやまとことばの「あながち」とを、一応ロ−マ字で書いて並べてみると、下のようになって、印象がはっきりする。Gk.はギリシャ語、Yt.はやまとことば。(やまとことばの昔の「チ」は[ti]の音で、今の書き方だと「ティ」になる。だから「あながち」は「アナガティ」。)
Gk. anagkazō
Yt. anagati
古代ギリシャ語の文献にある「アナンケ−」は、ラテン語では「ネケッスス」(necessus)と訳されて、それが英語の「ネセシティ」(necessity)になった。その形容詞は「ネセサリ−」(necessary)。私たちは「ネセサリ−」というと普通「必要な」という意味で使っているけれど、「必然的な」という意味もあったんだ。
で、「あながちにそうだとは言えない」を英語に訳すと、
It is not necessarily so.
という風になる。ということは、「あながちに・・とは云えない」ということの意味は、「(・・だからと言って)必然的に・・である、とは云えない」ということになる。
「・・だ、とは強引には云えない」という風な解釈もいいけど、それでは何か足りないようなところがあって、わたしたちの「あながち」の使い方には、先立つ話の流れを受けて、どこか「・・だからと云って、必然的に・・とは・・」というような意味合いが拭えないところがある。だから辞書にも「必ずしも」という説明が見えるんだと思う。
「アナンカゾ−」の意味を反映する「あながち」の用いられかたは、「源氏物語」にもよく見えて、大野晋氏の辞書(岩波古語辞典)では、それぞれの文例にとても適切な説明がある。あるところでの、
あながちなる御言(おほんこと)
のその「あながち」は「独り合点」、又、あるところでの、
あながちなる好き心
とあるその「あながち」は、「身勝手、いい気」と説明されている。「好き心」は「異性に対する関心」のこと。
それらの「あながち」の説明は「アナンカゾ−」の義に沿っていて、且つそのニュアンスの表現が実に微妙で適切だ。
ところで、なんだけど、この間から云っている「弓」という意味の「カマ−ン」(kamān)や、人麿の歌の「宿る旅人(たびびと)」のところで云った「輝く」という意味の「タ−ブ」(tāb)はどこのコトバかと云うと、それは古代ペルシャ語のコトバなんだ。
ギリシャ語の「アナンカゾ−」と、そしてペルシャ語の「カマ−ン」「タ−ブ」が「やまとことば」の中で一緒に居ることを説明し得るのは、ただ一つ、「アレクサンドロス」(アレクサンダ−)の東方遠征だ、っておじさん云ってた。