4.「やまと=大和」のこと


「やまとことば」の「やまと」は、「大和」って書くし、「大和」って書いて「やまと」って読むけど、どうしてそうなんだろうってことだけど・・


おじさんは、「かわ」は「川」、「そら」は「空」と書くのと同じで、「やまと」を「大和」と書くのは何の不思議もなくて、「やまと」は「大和」という意味なので「大和」って書くのだし、又「大和」を「やまと」と読む、そういうことだって云ってた。


「ありがとう」がもともとは「恩に着ます」、「さらば」が「お元気で」ということなのに、だいぶ昔から、もうそういうことすっかり分からなくなってしまって、「やまと」=「大和」のこともそれと同じ。


「やまと」というコトバは古いトルコ語


  「ヨムトゥ」(yomıt-)


というコトバから来ていると見られるの。この「ヨムトゥ」の意味は「集まる」、「一体となる」ということ。「yomıt-」の綴りで、「i」の上の点が無い「ı」は、今のトルコ語では日本語の「ウ」に似ている。そして、あとで話すけど、その綴りの子音だけ採った「ymt」が大事。


「ヨムトゥ」というコトバの使われ方の一つを少し詳しく言うと「何かの目的のために、一人の人のもとに大勢で集まる」という風に使う。だから「やまと」はとりあえず「集合」とか「聚合」という風なことかな。


いつも変に思っていたのだけど、「いい」というコトバは、「良い」という意味のときと、「いらない」という意味のときとある。そしたら、それはトルコ語の「イイ」というコトバの場合と同じ。トルコ語ではそのそれぞれの意味のコトバは別のコトバで、同じ「イイ」でもビミョ−に発音が違う。


トルコ語で、「つる」(鶴)は「トゥルニャ」、「やく」(焼く)は「ヤク」、それに日本では昔、商家で数の「四」のことを「だり」と云っていたそうなんだけど、「ドルトゥ」がトルコ語で数の「四」。詞(ことば)の前の方の二音を採って「ドル」。ダリはその音転のようだけど。




あと、段々と説明していくけど、「古事記」では、「岡目八目」のような技法を使って話を編んでいるところがいろいろとあって、そういうところが、古事記の話の筋はどう考えても変だ、という理由なんだけど、その技法のところに昔のトルコ語のコトバが使われていたりする。トルコ語ラテン語と同じように「やまとことば」に深くかかわっている。そういう風に古事記の技法の中で顔を出すコトバは、他にまだいくつかあるのだけど、おいおい話して行く。


トルコ語というと今のイスタンブ−ルのあるトルコ(トルコ共和国)のことをすぐ思うけど、やまとことばに関係するトルコ語を話す人たちが居たのは、アジア草原の真ん中のあたりだって。今のトルコ共和国の人々の祖先はもともとはそのあたりから来たということだから、昔の「やまと」の人々と何らかのつながりがあったかも知れない、っておじさん云ってた。


おじさんの話はラテン語ギリシア語とか、トルコ語とか、まだその他にもあちこち飛ぶから、ゆかははじめ目がまわる感じだったけど、話がそういう風になるのは皆、古いトルコ語のその「ヨムトゥ」というコトバ、そして私たちの「やまと」の「集まり」「集合」ということと切り離せなくて、その「集まり」と云うことが、「やまとことば」の本当の姿を見極めるのにとても大事。


「集合」は、今風の言い方で言えば「連合」とか「連盟」なんだろうけど・・ 「やまとことば」が形を成していったあたりのこと、おいおい話すけど、今大まかに言うと、古代、そのあたりの地域は使う言葉が全く違う軍団だか民族だかが突然入ってきたりして、大きないくさがたびたびあるのだけれど、それが治まるその都度、異なるもの同志が一緒に居ても、いがみあわずに仲良くした方が、という強い思いがあって、互いの言葉が何とかうまいぐあいに、易しい形で溶け合うような試みがされて、それは規模としてあまりこじんまりしていない、もろもろと含むところの大きい「和合」のようなことで、そういう環境の中、そういう意思があって、そしてできていったのが「やまとことば」なんだっておじさん云ってた。


そういういきさつがあるので、だいぶ後になって漢字を使いこなせるようになったときに、「やまと」という名に「大和」の二字が採用されたことは、「やまと」と「やまとことば」ということについての事情がそのまま反映されたということで、実にいい文字使いだと云ってた。



おじさんの話では、その「集まり」が日本に来たのはどういう道筋で、ということ、大体は見当がつくけれど、でも朝鮮半島を通るあたりのことでいまひとつはっきりしないことがある、とも云ってた。


ところが数年前に「とんぼ玉」を研究している人の本が出て、おじさんがそれを知ったのは後になってからだったけど、とても喜んでいた。とんぼ玉は凝ったガラス細工の飾り玉で、昔から世界中にあって、お金のような役割もして、それでもっていろいろな土地の間の交流や人々が動いた道筋が分かるということだ。


その研究をしている人によると、朝鮮半島の昔の「新羅」の遺跡で「とんぼ玉」が出土し、その作り方を見るとロ−マのそれとつながるのだそうだ。それにその新羅で使われていた「暦(こよみ)」が、最初に説明した、2000年前に変更があったという、ロ−マのカレンダーなんだそうだ。