16.「あさかやま」の歌(3)


「一富士(いち・ふじ)、二鷹(に・たか)、三茄子(さん・なすび)」、というのは、これらが初夢に出てくれば、いいことがある、ということだけど、今まで話して来たことでもって、これはひょっとして、「フジ」(富士)、「タカ」(鷹)、「ナスビ」(茄子)には、各々「いいこと」に関係する「エコ−」があるのじゃなかろうか、という感じがしない?

「エコ−」ということについては、第5回目の「エコ−と仮名二音とセリ(芹)」を見てね。


お正月だから、今日「一富士、二鷹、三茄子」について書けば丁度いいのだけど、「あさかやまの歌」についてもう少し書くことがあるので、「一富士・・」の詳しいことは次か、次の次くらいにする。でもせっかくだから、少しだけ触れておくことにする。


これはつまり前にも云った「ことわざ(詞技)」で、「富士」「鷹」「茄子」の各々について、「フジ」(富士)では「フズ」というコトバ、「タカ」(鷹)では「トゥケ−」というコトバ、「ナスビ」(茄子)では「ナシャブ」というコトバがそれぞれ「エコ−」になっていて、その意味は、いずれも「幸運」とか「吉」(きち)とか云うことなの。だから夢にそれらが出てくると、それが「吉兆」、つまり「いいことの兆(きざし)」、ということになる。何の言語のコトバか、と云うことなどについては、あとで・・                      



それで、今日は「あさか山」の歌についてだけど、娘子(をとめ)の仕草の


  「左の手にさかづきを捧(ささ)げ、右の手に水を持ち」


とある、その「左の手」の「ヒダリ」(左)というコトバの音にはエコ−があるのでそれについて書いておく。

この場合、「ヒダリ」は「ヒ・ダリ」という風に分けて、その「ダリ」にエコ−があるの。

                 
昔、八百屋さん、魚屋さん、駕籠屋(かごや)さんなどの間で使われたコトバなんだけど、「ダリ」というコトバがあって、それは数の「四」「四十」「四百」を表わす。基本的には「四」。トルコ語で、


  数「四」の義の「ドルトゥ」(dört)


という詞があって、その頭二音分の「ドル」の音転で「ダリ」となる。


  言ひも習はぬ駕(かご)かき詞(ことば)、・・・
  ダリ、坂東(ばんどう)・・    近松、「日本西王母


ちなみに「坂東、ばんどう」は数「八」で、やはり「八十」「八百」なども指す。この方は、「坂東八箇国」、つまり「関八州」の「八」から来ていると云われている。関八州は、「足柄」「碓氷(うすひ)」より東の関東八州、相模、武蔵、安房(あは)、上総(かづさ)、下総(しもふさ)、常陸(ひたち)、上野(かうづけ)、下野(しもつけ)の八つ。


左の手のこと、これで大体分かるでしょ。「(右の肘で王の膝を)打ち(=撃ち)」の「ウチ」が数「三」だから、「ヒダリ」(左)の「ダリ」は、それを承けて「三、四」とつなげている。




この「三、四」のことは、第8回目の「『ウチ』のことと『鎌を掛ける』のこと」で触れた、人麿の「阿騎の野」の歌の第一首にも出てくる。


  阿騎(あき)の野に、宿(やど)る旅人、打ちなびき、・・・


とあるけど、その「宿る」(ヤドル)の「ドル」が、娘子の「ヒダリ(左)」の「ダリ」にあたり、「打ちなびき」の「ウチ」と呼応して「三、四」となる。人麿の「ドル」の方がトルコ語の「ドルトゥ」に近い。


その第8回目のところでも書いたけど、伊藤左千夫が人麿のこの一首を評して、


「『宿る旅人』も余りよそよそしい言い方でおもしろくない。要するに全体が輪郭的になりすぎて居る。感情の現れと云ふよりは、他の感情を余所(よそ)から説明したに過ぎない感がある」


という風に云っている。


  「他の感情を余所(よそ)から説明」とか、「輪郭的」とか、


ふつう人はそういう表現を思い付かないけど、この歌の造りについては的確な形容で、左千夫は直感的に漠然と感じたところを述べたのだけど、この一首は実際そういう風にできている。
                          

つまり、第一首では「月が輝いている」、すなわちペルシア詞「タ−ブ」(tāb, 輝く)ということを云わんがための「旅人」(タビ・びと)であり、そして、「旅人」と云わんがための「宿る」であり、同時に又、「うちなびき」(体を横たえて寝る)の「ウチ」に呼応せんがための「ヤ・ドル」(=「宿る」)なの。そういう風な「音」や「意味」の裏打ちの「輪郭」に、「打ちなびき、宿る、旅人」をはめ込んでいる。




「あさか山」の歌に戻って、もう一つ、今度は「ひだり」(左)を「ヒダ・リ」と区切ると、その「ヒダ」は、「ヒヂ」(肘)、「ヒザ」(膝)と音が通うところがあり、これでもって「アシュック」の「肘」のことを裏打ちする形になっている。「ひぢ、肘」は今は「ひじ」だけれども、「ひぢ」の昔の発音を今の書き方で書くと「ヒディ」。
 
      
昔の「ハ行」の子音は本当は「h」とは少し違って、たとえば「ハ」だったら、「プファ」となるような、「ph」という風に書き表される音なのだけど、今簡単に「h」でもって書き表すと、「ひだり」(左)の「ヒダ」、そして「ヒヂ」(肘)、「ヒザ」(膝)は、順に


    hida (HD) -- hidi (HD) -- hiza (HZ)


という風になって、これらの音が通い合う様子が分かる。


娘子(をとめ)の「あさかやま」の歌は、その仕草の方もそうだけど、相当に考えられ、練られたものであって、即興で作られたものとは考えにくい。葛城王(かづらきの・おほきみ)が都からやって来るその用向きは予想が付き、迎える側としてはそれなりの心得があってのことと思う、っておじさん云ってた。六雁(むつかり)のような振舞いとそれに歌を合わせた両立てで、七重八重の掛けがある。


だから、この歌の場合、作る方も大したものだけれども、前にも書いたように、見て聞いてたちどころにその歌と仕草の造り、意味が分かる方も大したものだ、って。


葛城王」(かづらきの・おほきみ)は、後に「橘諸兄」(たちばなの・もろえ)と呼ばれるようになった人。大伴家持はこの人に目を掛けられた。諸兄は万葉時代末期に歌の保護・育成に努め、万葉集はこの人の意を承けて、大伴家持らが編集にあたった、と云われている。万葉集に収められている諸兄の短歌八首のうち七首はみな宴席での歌で、人柄は温和、歌はのびやかで品位がある、とされている。(岩波書店「日本古典文学大辞典」参照。)

                       


次のようなことがあるの。

「田中利光(たなか・としみつ)」氏(作曲家、国立音大名誉教授)の述懐するところが、1997年(平成9年)9月4日の読売新聞に載っている。

       
「私にはかねがね疑問に思っていたことがある。津軽出身の私はこれまで故郷の風土を基底に据えた作曲活動を展開してきたが、五線譜に向かうたび、アジア大陸の西に位置するトルコ音楽の旋律がなぜ『津軽山唄(つがる・やまうた)』に似ているのか不思議だった。さらに、トルコと日本の中間のヒマラヤ奥地の音楽がなぜ『江差追分(えさし・おいわけ)』に酷似しているのかも気になった。」


津軽山唄」は「美空ひばり」が「りんご追分」の途中に入れて歌ったことのある、その唄だよ。田中氏は続ける。


「民謡は多くの場合、作曲者不明のため創作動機が判明せず、その伝播(でんぱ)についても不明な点が多い。しかし、類似の民謡が世界各地で同時発生したとは考えにくいから、やはり私は比較音楽学者が唱える『トルコ源流説』に傾斜する」、


と。記事のタイトルは、「絹の道たどり極東の島国へ−−『歌の旅路』の証し実感」。
        
    

ただ、その道は多分「天山北路」なんだろうけど(第11回目の<アレクサンドロスの後のこととロ−マ(1)>を参照のこと)・・そして、トルコ語のエコ−は陸奥(みちのく)でも都でも通用した、ということなんだ。


橘諸兄の当時、この列島でトルコ語とか、それに他のいくつかの言語とか、それらがどれくらいの元気さでいたのかはわからないけど、「トルコ語」が、他のいくつかの言語と共に、この列島で「やまとことば」と平行して使われていた、と考えられるの。