31. かがなべて(2)


第27回目の続きを話すね。甲斐(かひ)の国、酒折宮(さかをりのみや)で、倭建命(やまとたけるのみこと)の問い歌「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」に対して、御火焼(みひたき)の老人(おきな)は「かがなべて夜には九夜、日には十日を」と答えたけど、その返しの初句「かがなべて」について考えてみる。「夜には九夜、日には十日を」については、第24回から第26回の< ヤマトタケルの話の筋 --- 九夜十日(ここのよ・とをか)>において述べた。


  (問ひ) 新治筑波(にひばり・つくば)を過ぎて、
      幾夜(いくよ)か寝つる

  (返し) かがなべて、夜(よ)には九夜(ここのよ)、
      日には十日(とをか)を


問い歌では「幾夜か寝つる」と「幾夜か」を問われているのに、返しでは「十日」と「日の数」を添えて答えられている。このことがこの返しで目立つ一番の特徴で、「かがなべて」は実はこのことに関わっているの。


「十日を」とある「を」は「感動の助詞」であると言われており、ここではそれに従う。


「ふつカ(二日)、みつカ(三日)、よつカ(四日)、・・・」などと数える、その「日」としての「カ」、それを複数にしたものを「カガ」(=「日々」)とし、それから、「なべて」の方は、「並(な)べて」として、それで「かがなべて」は、


  「日々(かが)を並(なら)べて」、つまり、「日々を重ねて」


という風に解釈することが普通に行われている。しかし、よく考えてみると、上に述べたように、問い歌で、


  ・・幾夜か寝つる


という風に、「幾夜か」と「夜の数」が尋ねられているのに、「夜には九夜、日には十日を」という具合に「夜でない、日の数」のことを敢えて加えて答え、あまつさえ返しの初めの句で、問いに逆らうかのように、


  日々(かが)重ねまして・・


と出すのは、何か角が立つ風だとは思わない?


返しで「十日」と「日の数」を詠む、また「十日」と詠む何らかの必要があるということであるのならば、そのことについて一言、前置きのようなものがあった方がいいのではなかろうかと思う。


ここで「なべて」ということについて、辞書で確かめてみると、「おしなべて」、「統(す)べて」、「ひっくるめて」、という義が見える。この「ひっくるめて」という義でもって「かがなべて」を読んでみると、


  日々(かが)ひっくるめまして


という風になる。


御火焼の老人が「日々(かが)ひっくるめまして」という、そういう意味でこの初句を出しているのだとすると、ここで気が付くのだけど、それは「幾夜か」と聞かれているのに対して、「九夜」に加えて、わけあってどうしても「十日」と出さなければいけない、それでそのことが失礼にならないように前もってそれについて触れておく、という、まさにその心づもりでこの初句を出している、ということではないのだろうか。


つまり、


  (「幾夜」とお答えすべきところ、)「幾日」、と「日数」
  のこともひっくるめまして・・


という意味で詠んでいるのではなかろうか、ということなの。もっと分かりやすくすると、返しでは、


  「かが(日々)もなべて」 (=「日数もひっくるめて」)


という、「も」の含みのあることを御火焼の老人は言っている、と、このように読んでみる。


一般的に云って、「なべて」という云い方は、その「ひっくるめて」という意味でもって、「・・も一緒にして」という、その「・・も」ということを前提として含んでいる云い方であると云える。


  ・・知るも知らぬも、ナベテかなしも     古今和歌集1096


「かなし」は「いとしい」、ということで、「知っている人も知らない人も皆いとしい」。



  梅の花、それともみえず、久方(ひさかた)の、
  あまぎる雪の、ナベテふれれば
      (この歌、ある人のいはく、かきのもとの人まろが歌なり) 
                           古今和歌集334

 
「あまぎる」は「空が一面に曇っている」。「ふれれば」は「降れれば」。「雪は梅の花の上にも降ったので、花が咲いているのだろうけれども、そうは見えない」ということ。


古今集のこの歌には「この歌、ある人のいはく、柿本の人麻呂が歌なり」と添え書きがある。あとで述べる「幾夜か」の「ヨカ」(YK)とこの歌の「雪、ユキ」(YK)、それに「かがなべて」の「ナベテ」をこの歌の「なべてふれれば」の「ナベテ」と比べ考える。

そうすると、この歌はひょっとして、新治筑波の問答歌を本歌取りしたもの、とも考えられるの。


実際に人麻呂のものであるのか、あるいは、人麻呂のものであると当時考えさせるような何かを持っているのか、とにかくそういう趣、要素を備えたものとしてこの歌全体を見ると、「それともみえず」とあるところが思わせぶりだ。


この「それともみえず」は、第26回目で述べた人麻呂の歌、


  飼飯(けひ)の海の、ニハよくあらし(=あるらし)
  苅薦(かりこも)の、乱れ出づ見ゆ、天の釣り船


での「あらし(=あるらし)」に似た趣をただよわせている。この歌では、「ニハ」(漁場)が、「夜には・・日には・・」の「ニハ」に掛けていて、それでもって弟橘媛の御櫛(みくし)が海辺に流れ着いた日の海の「なぎ、凪」のこと、そして「飼飯(ケヒ:KH)」の「Kと H」でもって暗示される「NH / NG」の変化のことから、飯(けひ)の海の「ニハ(NH)」(漁場)が「ナギ(NG)」である様子を想わせている、と考えられるのと比べられるところがある。


「梅の花、それともみえず、・・ナベテふれれば」の歌は、「かがなべて」の「ナベテ」について解き明かしている歌である、という風に見ることができるのだけど、その際、下に述べるように、「梅の花」で暗に示されている「咲く」の「サク」(SK)と、それに「雪、ユキ」(YK)とでもって、「かがなべて」とのつながりをほのめかしているのではないか、ということが云える。


そうであるとすると、


  「かがなべて」 は 「かがもなべて」


ということだよ、梅の花が咲いているのだけれど、そこにも雪が降って、見えなくなってしまっているのと同じく、「も」が隠れていて見えないけれど・・、と教えてくれている歌、ということになる。深読みに過ぎることになるのかも知れないけど、「それともみえず」は、「(それと)、『も』見えず」、と読んでいいのかも。「梅の花・・、ナベテふれれば」のつながりでも、「梅の花にも雪の降れれば」という風に、そこに「も」の気配が感じられる。


今「カガナベテ」のこの句を標準語のアクセントでもって声に出して読むときには、その「カガ」を平らに「カガナベテ」と一気に発音するのが普通と思うけれど、上のようなことを思いながら、ここで初めの「カ」の方を高くして「カガ」と云い、そしてそこでほんのちょっと息を止め、それから「ナベテ」の「ナ」を心持ち強く云うと、「日々(かが)もなべて」というニュアンスが多分感じられると思う。




今まで述べてきたように、走水(はしりみづ、=浦賀水道)で失った「弟橘媛(おとたちばなひめ)」のことと、そして「泥疑(ねぎ)」のことに始まる父景行天皇の誤解のことの二つが、ヤマトタケルの心から離れずにある。


タケルは、甲斐の国のここ酒折宮に至る前に、「足柄」の「坂本」の山中で、弟橘媛を想うあまり、「坂」をのぼって、


  「吾妻(あづま)はや」


と叫んだ。それで「東の国」を「あづま」と呼ぶようになった、と云うことなのだけど、酒折宮では、その「サカ(酒)」が足柄の「坂本」の「サカ」に続く。この「サカ」には野焼きに遭った「相武(さがむ)」(=「相模(さがみ)」)の「サガ」以来、「燃える」や「火」のエコーがあって、しかも、返しを為さんとする者は「御火焼の老人」。


「相武」以来、「燃える」や「燃やす(=「焼(た)く」)」や「火」ということは「弟橘媛」と結ばれていて、そして「日」ということは、第25回目で見たように、それらと詞源的に関わる。


今、ヤマトタケルの心の中にあるはずの「日」からさかのぼれば、「燃える」と「火」、「(新治筑波を)過ぎ(スギ)て」、「酒(サカ)折」、それに、「(吾妻はや、と)叫(サケ)びたまひき」の「叫(サケ)び」、これはウラ(裏)のコトバとしてあるもので、古事記の記述は「吾妻(あづま)はや、と詔云(の)りたまひき」とある。


そこは長めに引用すると、「坂(サカ)に登り立ちて、三たび嘆かして、吾妻(あづま)はや、と詔云(の)りたまひき」とあるのだけど、その「坂(サカ)」、更に「(足柄の)坂本(サカもと)」、そして走水(はしりみず)の海での弟橘媛の最後の歌に「相武(サガむ)の小野(をの)」とある、その「相武(サガむ)」へと辿って(以上、第25回目の終わりの方を参照のこと)、そこで共に野焼きの難を逃れた「弟橘媛」に届き、その「日」は今まさにヤマトタケルがもっとも口にしたいところ。


であるにもかかわらず、タケルはそれを敢えて言わず、反対に「幾夜」と「夜」の方の数を問うた。


でもその「幾夜か(いくよか)」の「ヨカ」(YK)には、


  密かに「ヤク、焼く」(YK)が込められており、


こういうことがみな御火焼の老人には分かったの。それで、「日々(も)なべて」と前置きし、「幾夜か」と詠まれている問い歌のタケルの本当の気持ちに応えるべく返しの歌を始めた。


でもその際、


  「かがり火」(篝火)の「カガ」、


それを「カガやく」(輝く)という云い方からして、「明かり」という義で捉え、「かがり火」(篝火)そのものを指すものと見ると、「かがなべて」ということは、


  「かがり火を並べて」


という意味でも云って、と考えられるの。この場合「並(な)べて」は「なら(並)べて」ということになる。


「幾夜か」と問われて、「日々(かが)も並べて」と返しを始める時、火焼の老人は「かがり火を焼(た)く」というおのれの仕事に事寄せ、さりげなく「かが(=「かがり火(を)」)並(な)べて」とし、「十日」に言い及ぶための「日々(も)並べて」をそこに重ねた、と見る。




と、ここで上の古今集の歌に戻ってみると、「そこにも雪が降って、見えなくなってしまっているのと同じく、「も」が隠れてしまって見えないけれど・・」と解したそこには、歌には見えないけれども「梅の花咲く」の「サク」ということがある。それが「相武(サガむ)」から「酒折(サカをり)」に至るまでの「火」のことの含みとなって、「雪、ユキ」(YK)の方は、「幾夜か」の「ヨカ」(YK)を承けている、と見ることができる。


古今集のその歌のこころを更に考えてみると、「かがなべて」において、「幾夜か」の「ヨカ」(YK)を「ヤク、焼く」で承けるところの「かが(=かがり火)を並(な)べて」のことを御火焼の老人がそこに重ねるとき、ここでもし「も」を加えてしまっては、「かが(日々)もなべて」の方の通りはよくなるけど、しかし「かがり火を並(な)べて」の方の通りが悪くなってしまう。


それで老人はその返しで、(字余りを避けるということもあって)「も」を省いた、それで古今集のその歌は、「日々もなべて」とあるべきところのその「も」が、雪が降って見えなくなった梅の花のようになっている、という風に説明している、と考えられるの。


そういうわけで「かがもなべて」の「も」のことは、「かがなべて・・」とあるその返し歌を聞く人、読む人の察しに委ねられている。