6.「かたる、カタログ」「おとぼね、テレフォン」「ほね、ボウン」「かぎ、キイ」「にい、ニュウ」「馬並(な)めて、ナンバ−」


「かたる」(語る)というコトバは英語「カタログ」と親戚なんだ。二つともギリシャ語の「カタレゴ−」(ギリシャ語では、これ一つで「私は語る」ということ)というコトバから来ていて、やまとことばの「かたる」はこの場合、動詞の「る」がつくこともあって、頭から「仮名三音分」の「カタレ」を採っている。つまりこの場合はしっぽの「ゴ−」だけ落している。


「カタレゴ−」は「カタ・レゴ−」という風に分けることができて、「レゴ−」は「(私は)話す」で、「カタ」は「ことごとく」という意味を添える、ということで、それで「カタレゴ−」は「事の一部始終を話す」という意味になる。「カタログ」はそういう訳で「目録」ということだけど、やまとことばの「かたる」も、「ものがたり」ということでも分かるように、ただ「話す」ということではなくて、「事の一部始終を話す」、ということになる。




江戸時代になると、それまで書き物では使われなかったコトバも本に姿を見せるようになって、「おとぼね」というコトバが出てくる。「音骨」という風にも書くけど、国語辞書を見るとある。「おとぼねたてるな、と、下着のつま先口に押し込み」とか「うぐいすのおとぼねが聞こえてきて」とかいう風に使っている。「声」とか「音」のこと。


どうして音や声のことに「ホネ」って云い方するんだろうと思うけど、ギリシア語で音や声のことを「フォ−ネ−」って云う。英語の「テレフォン」(telephone)は「テレ」(遠い)と「フォン」(声)とを合わせて作ったコトバでしょ、その「フォン」(phone)の綴りにギリシャ語「フォ−ネ−」が残っている。これが「おとぼね」の「ホネ」なんだ。



「おと」(音)はギリシャ語の「アッティカ地方」(アテネのある地方)の方言で「オタ」。この「オタ」はもともとは「うわさ」という意味で、それから声とか音とかのことも云うようになる。やまとことばでは「名高い」、「うわさに聞く」ということを、「おとに聞く」と云ったり、それに、「おと沙汰無い」とか云う。



英語で「骨」のこと、「ボウン」(bone)だけど、そのままロ−マ字読みすると「ボネ」、濁音じゃなくすると「ホネ」になる。古い英語では「バ−ン」、綴りは「ban」で「ボネ」とはそのまま読めない、けど、関係してる。このあたり、あとで話すことになるけれど、「やまとことば」は、英語が属している「ゲルマン語」というグル−プにも関係するんだって。段々と説明していくけど・・


他に簡単な例で言うと、英語で「かぎ」(鍵)は今「キイ」(key)だけれど、その「y」になっているところは、昔は「g」で、「カ−グ(キャーグ)」(cag)って云ってた。



それに、これは必ずしもゲルマン語系とは言えないんだけど、比べやすいということで、とりあえず挙げるんだけど、宮崎県に「新田原」というところがあって、「にゅうたばる」って云う。つまり、「新」=「にゅう」になっていて、英語の「new」(ニュ−)と同じなんだ。「新潟」(にいがた)の「にい」ももちろんそれと親戚。




万葉集の第4番の歌は、狩りの様子を歌っていて、


   「宇智(うち)の大野(おおの)に馬並(な)めて」


とある。その「馬並めて」は馬を横列に並べて進む様子で壮観だけれど、万葉集はもともと漢字だけで書いてあって、そこのところは、


   「馬数而」


とある。「而」は「何々して・・」の「て」だけど、「なめて」(並めて)の「なめ」にあたるところが「数」という字になっているのはどうして、ということなんだけど・・



英語で「数」のことは「ナンバ−」、または「ナムバ−」と書いてもいいけれど、ラテン語「ヌメルス」から来ていて、しっぽの「ス」が落ちて、訛って「ヌムル」「ノムレ」とか「ノブレ」のようになったときに、言う時の口の加減で自然に「ノムブレ」といった具合になって、そして「ナムバ−」になった。


そこで「ヌメルス」に戻るけど、「数而」を「ナメ・て」と読むのは、その頭の二音「ヌメ」を採っている、ということなんだけれども、当時「ヌメ」の「ヌ」が英語と同じく訛って「ナ」の音になっていた、ということで、それで「数而」を「ナメ・て」と読ませている。しっぽの「ルス」は捨てて、頭から仮名で二音分だけ採る。